北の方の山脈が霧の奧から雄大なる姿をすこしづゝ露はしてきた。金糞ヶ岳、伊吹山も深い雲霧の後方にまだ夢みてゐるやうな淡い影だけ見せてゐる。老僧はと水の上を見ると白い水煙の彼方にやつぱり圓顱《えんろ》の姿が小さく見えてゐたが、そのうち舟の影と共に霧の中に消えてしまつた。竹生島も、もうずつと西北の水の向ふに影が薄れてしまつた。
昨夜の代りに今のうちに少し寢て置かうと思つて一旦船室に入つて來たが、やつぱり甲板の眺望が氣にかゝつて眠られさうにないのでまた起きて出て見る。その間に船は姉川の河口を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて南濱といふところに寄つて、そこからは乘客がどやどや甲板に上つて來た。賤ヶ岳の方も今朝は船尾の方にそれと認められる。小谷川も朝靄の中に朝日を浴びてゐる。長濱に着いた時はまだ七時で貨物の積み下しに出帆までには三十分ばかりの時間があるといふので、その間を利用して長濱の町の瞥見に上陸してみる。肥料にする干魚の臭や繭の市場の臭ひのする中に商賣に拔目のなささうな町の人間はもう夙に起き出でて、その日の業務に就いてゐる。天氣は本當に晴れ上つて暑さが劇しくなつて來た。
長濱を出てから昨日は遠くに見た靈仙山が今日は長濱から彦根につゞく坂田郡の平野の彼方に天を衝いて盛り上つてゐるのが見える。彦根の城閣も朝霧の中に朦朧とした輪廓を見せて來た。その少し左の方に佐和《さわ》山の城址も見えてゐる。
今まで忘れてゐた右舷の方の湖上に眼を放つと、多景《たけ》島がやゝ近くに岩の上に立つてゐる堂塔の形を見せてゐる。沖の白石はその眞西にあたつて、今日も白帆を集めたやうに水の上に浮いてゐる。今日は一昨日に倍して湖の上が一層和やかで、平滑な水の面は油を流したやうにのんびりとして沖の方はたゞ縹渺と白く煙つてゐる。天氣が好いと見たか湖西の方の水面には幾つも帆舟がかゝつてゐる。船が彦根を出るとボーイに誂らへて置いた辨當が出來たので、それを甲板に持つてこさせて湖上を展望しながら食べる。そこから奧の島の伊崎不動のあたりまでは三四十分ばかりの間左舷の風景が稍※[#二の字点、1−2−22]單調なので、今のうちに少し微睡をとつて頭を休めておいて、奧の島が近づいて來た時分に起きようと思つて室に入つてシャツと股引ばかりになつて長く寢そべつてゐると、相客は一人もゐないで、いゝ心地にづる/\とまどろむこ
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