さういつて、二度目の、此の方はお茶にしてといふのを稍※[#二の字点、1−2−22]語勢を強めていはれた。ボーイはその通りに老僧には白湯を汲んで薦め、私の方へは茶を煎れて出した。すると、老僧はその茶碗を手にとつて底に一滴も殘さぬやうに仰向いて茶碗を啜り、空になつた茶碗を靜《そつ》と茶托の上に伏せて置かれた。人は平素の行儀を一朝にして改むることは出來ない。書生流の私は茶碗を半分だけ飮み殘した。老僧に眞似てそれを伏せることもならず、そのまゝ茶托とともに卓の上に突出して置いた。舟車の中では大抵の人は通常の家に在るよりも一層行儀を忘れて顧みないものだが、老僧には少しもさういふ風は見えぬ。その時もし私がゐなくなつて老僧が一人きりであつてもその通りに恭謙であつたにちがひない。一椀の食一滴の水も佛恩であるから、これを粗末にしてはならないといふ訓條を恪守《かくしゆ》して、それが今は習ひ性となつてゐるのであらうと思はれた。そのうちにもう船は向岸に近づいたと思はれて船長が入つて來て老僧に挨拶をしていつた。私も起つて老僧にお別れの辭儀をして頭を上げてみると老僧はまだ/\圓い頭を兩|掌《て》に載せて卓の上に額づいてゐられる。私は詮方《せんかた》なくもう一遍額を下げた。船童は手荷物を持つて老僧の先きに立つて案内する。私もあとから送つて出た。
 舷側には一二人の乘客を乘せた通ひ船が近づいて來た。老僧は船長や船童に扶けられて通ひ船に乘り移り、蓙《ござ》の上にきちんと坐られた。そして舷側を離れるとともに恰も佛の前に稽首《ぬかづ》くやうに、三度ばかり鄭寧に頭を下げて謝意を表せられた。恐らく此の時の老僧の心には船長やボーイその他の見送つてゐる者が佛の使者として考へられたのであらう。老僧の心眼には一切の有情無情が佛の一部として映つてゐるのであらう。
 船はさうして老僧を通ひ船に移すと直ぐまたけたゝましい推進機の音に水を蹴つて進航を始めた。甲板に上つて見てゐると、朝霧の中から漸く眼の覺めかゝつてきた水の上にどこからともなく薄い日影がさして湖の上が次第に白く輝いて來た。老僧の圓い顏が一つその中に見えて通ひ船は段々向ふに遠ざかつてゆく。早崎に續く地方の寺や人家の屋根が緑の樹々と點綴して汀の青蘆の彼方に遠く廣がつてゐる。先刻竹生島の棧橋で老人のいつたとほり、天氣は確かに晴れであるらしく東の方が倍々明るくなつて東
前へ 次へ
全14ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング