ず、葷酒《くんしゆ》を知らず、春風秋雨八十年の生涯を此の江湖の水によつて遠く俗界と絶ち、たゞ一と筋に佛に近よることを勤めて老の到るのを忘れてゐられるのである。それは昨日ほかの者から噂にきいていた。
老僧は通ひ船に乘り込んだはずみに私の方に近づいて來られたので、私は會釋をしつゝ、
「いろ/\お世話になりました……」
とお禮を述べると、老僧もそれと同時に、女の樣な柔和な笑顏をこちらに向けて、
「ゆきとゞきませんで、さぞ御不自由でお困りでございましたでせう」
と、聲も女のやうに優しい寂のある聲である。觀音さまには男相と女相とあり、或ひは男とも女とも區別のつかぬ御顏をして居られるのであるが、老僧こそ風光明媚なるこの竹生島觀世音の化身ではあるまいかと思はれて、顏容といひ音聲といひ、體まで小さく痩枯れて女と見まがふ柔和な方である。中古の黒絽の道服に絹紬の着物の質素な裝をした老僧は杖をついて舟の中に向ふをむいて立つてゐられる。
やがて汽船の傍に漕ぎ寄せて老僧は雛僧《こぞう》さんに扶けられて船に乘り移り、私もそのあとから續いて乘つた。雛僧さんが手荷物を老僧に渡して歸つてゆくと、一等室には老僧と私と二人きりである。老僧は行儀よく端の方に腰を掛けて、兩手を膝に載せてをられる。どこまでゆくのであらう。あまり遠くへゆくのでもなささうだと思ひながら、
「どちらへおいでになります?」
「私は早崎まで、すぐこの先の地方《ぢかた》です。」
「あゝ左樣ですか、御老體にもかゝはらず、お達者で御結構です。お幾つにおなりになります。」
「今年七十七になります。」
「あゝ左樣ですか、私の老母は當年七十八歳になりますが、先年竹生島へ參詣いたしましたことを話して居りましたので、湖水の風景を觀かた/″\是非私も參詣したいと思つて居りましたが、今囘漸く宿望を遂げました。誠に聞くに優る美しい景色の處で。」
「あゝ左樣で、その頃は今より又一層交通なども不便であつたでせう。」
老僧は柔和な口元に優しい微笑を浮べながら語る。世間のさういふ老僧などに屡※[#二の字点、1−2−22]見る對手を見下したやうな尊大な口の利《き》きやうや、僧侶に共通の俗人を諭すやうな言葉尻の臭味もない。そこへ船童が茶を入れてきた。老僧はそれを見ると、船童に、
「私は白湯《さゆ》にしてもらふ。この方はお茶にして、……此の方はお茶にして。」
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