ばかり降りつづいていたので、私は京の女のことが毎日気にかかりながらも、しばらく故郷の生まれた家に滞留していた。田舎でも四囲の山々が日々に紅に色づいて、そして散り落ちていった。私は何となく、気忙《きぜわ》しくなった。その年の五月から六月にかけて、女の家にいて以来、もうどこへ往っても彼女の傍にいるくらい好いところはなかった。彼女と一緒にいるところのほかは自分の満足して住むべき世界はないような気がするのであった。
 私は冷たい冬雨の降りそぼつ中をも厭《いと》わず、また田舎から京都に出て来た。そして今度は先にいた旅館には行かず、ずっと上京の方の、気の張らない、以前から馴染《なじ》みのある家に往って滞泊することにした。そこは、先の下河原の方の意気な都雅な家とは打って変り、堅気一方の、陰気な宿で、そうなくてさえヒポコンドリイのように常に気の欝いでいる自分の症状に対してはますます好くないと思ったけれど、先だって田舎に往く前にちょっと女と自動電話で話した時にも、
「上京の方の気の張らん宿にお変りやしたら、私一ぺん寄せてもらいます」
と、女が言っていたので、女を宿に訪ねて来さしたいばっかりに、そこへ宿を定《き》めたのであった。欲《ほ》しい女が思うように自分の所有《もの》にならぬためにそんなに気が欝いでいるせいか、そのころ私はちょっとしたことにもすぐ感傷的になりやすくなっていた。田舎から出て来て宿に着いたその晩も、そうして京都に出て来てみると、しばらく滞留していた田舎のことなどが、胸に喰《く》い入るように哀れに感じられたりして、私は、どうすることも出来ないような漂泊《さすらい》の悲哀と寂寞《せきばく》とに包まれながら、ようやくのことで、その宿で第一の夜を明かしたのであった。
 そして明けても暮れても女のことばかり一途《いちず》に思いつめていると気が苦しくなってしかたがないので、かねてからこの秋は、見ごろの時分をはずさず高雄の紅葉を見に往きたいと思っていると、幸い翌日《あくるひ》はめずらしい朗らかな晩秋の好晴であったので、宿にそれといいおいて、午少し前からそっちへ遊山《ゆさん》に出かけていった。時は十一月の二十四日であった。電車のきく北野の終点まで行って、そこから俥で洛西《らくせい》の郊外の方に出ると、そこらの別荘づくりの庭に立っている楓葉《ふうよう》が美しい秋の日を浴びて真紅《まっか》に燃えているのなどが目についた。それから仁和寺《にんなじ》の前を通って、古い若狭《わかさ》街道に沿うてさきざきに断続する村里を通り過ぎて次第に深い渓《たに》に入ってゆくと、景色はいろいろに変って、高雄の紅葉は少し盛りを過ぎていたが、見物の群衆は、京から三里も離れた山の中でも雑沓《ざっとう》していた。私は、高い石磴《いしだん》を登って清洒《せいしゃ》な神護寺の境内に上って行き、そこの掛け茶屋に入って食事をしたりしてしばらく休息をしていたが、碧《あお》く晴れた空には寒く澄んだ風が吹きわたって、茶褐色《ちゃかっしょく》のうら枯れた大木の落葉がちょうど小鳥の翔《かけ》るように高い峰と峰との峡《はざま》を舞い上がってゆく。愛宕《あたご》の山蔭に短い秋の日は次第にかげって、そこらの茶見世から茶見世の前を、破れ三味線を弾《ひ》きながら、哀れな声を絞って流行唄《はやりうた》を歌い、物を乞《こ》うて歩く盲《めし》いた婦《おんな》の音調が悪く腸《はらわた》を断たしめる。侘《わび》しい心にはどこに行っても明るく楽しいところがなかった。

     五

 田舎へ往ってからも二、三度手紙を出して、今、悪い風邪が流行っているが、変りはないかと訊《たず》ねて越《おこ》したりしたが無論何とも言って来なかった。京都に出てくると、その晩すぐ手紙を出して、今度はこういうところにいるから、一度訪ねて来てもらいたいと言ってやったけれど、例のとおりに何ともいって来なかった。そして、今度の宿は、先のところとちがい気の張らないだけに、土地柄からいっても、何からいっても陰気で、気が晴れ晴れとしないので私は部屋の中にじっとしているのがいたたまらなくなって、高雄の紅葉を見にいった翌晩祇園町の方に出て往き、夜にまぎれて女の勤めている家の前をそっと通ってみた。
 すると、不思議ではないか。入口の格子戸《こうしど》の上のところに、家に置いている妓《こ》の名札が濃い文字で掲げてあるのに、しかもその女の札は、もう七、八年もそこに住み古しているので、七、八人も並んで札の掲っている一番筆頭であるのに、なぜか、そこのところだけ、ちょうど歯の脱《ぬ》けたようになっているではないか。察するところ、札を外《はず》してからまだ幾日も日が経ぬのでまだ名札をはずすだけはずして後を揃《そろ》えず、そのままにしているのらしい。私は寒い夜風の中に釘付《くぎづ》けにされたような気持で、そこへ突っ立ったまま、
「はて、不思議だ。どうしたのだろう?」と、思った。彼女を知ってから五年の長い間、不安に思う段になれば、随分不安なわけであった。日夜数知れぬ多くの人に名を呼ばれている境涯《きょうがい》の身であれば、商売を廃《や》めるからとて、一々馴染みの客に断って往くわけのものでもない。けれども自分は、初めから度胸を据《す》えて、女は私に黙って、そこから姿を消して往[#底本では「住」と誤記、429−上−14]かないと信じていた。百に一つ、そんな場合がありはせぬだろうかと、遠く離れていて、ふと不安に襲われることがあっても、何となく、そんなことはめったになさそうに思われたのであった。しかるに、今、まぎれる方もなく、明らかに彼女の名札が取れているのを見ると、近いうちにここにいなくなったに相違ない。籠《かご》に飼われた小鳥と同じく容易に逃げていなくなる気づかいはないと思っていたのは、もとよりこちらの不覚であった。そんなことがありはせぬか、せぬかと不安に思いながら、今までなかったから、あるまいと思っていたら、とうとう籠の鳥は、いつの間にか逃げてしまった。
 私は、そこに棒立ちになったまま、幾度か自分の眼を疑って、札の取れているのが、どうぞ悪い夢であれかしと念じたが、たしかに札は取れている。よほど思いきって、そのままその家へ入って行って訊ねてみようかと思った。彼女に自分という者が付いているのは、ここの家でもよく知っているはずである。構いはしないだろうと思ったが、自分は、彼女と関係の出来た最初から、どこまでも蔭の者になって、そっと自分の所有《もの》にしてしまうつもりであったので、今さら、女がいなくなったといって、そこの家へ訪ねて往き、自分のほかに、もっと深いふかい男があって、その男に落籍《ひか》されたのに、こちらが、男は自分ひとりのような顔をしていて、裏にうらのある、そんな稼業《かぎょう》のものの真唯中《まっただなか》に飛んだ恥を曝《さ》らすようなことがあってはならぬ。自分は、彼女をこそ、生命《いのち》から二番めに愛していたけれど、それとともに自分の外聞をも遠慮しなければならぬ。
 と、焦躁《いらつ》く胸をじっと抑《おさ》えながら急いで、そこの小路を表の通りに出てきて、そこから近い、とある自動電話の中に入って、そこの家の番号を呼び出して訊ねてみた。いつも、その女の本姓をいって電話をかけたので、電話口へ出た婢衆《おなごしゅ》らしい女に、こちらの名をいわず、それとなく、
「もしもし、あなたは松井さんですか。藤村さんはおいでですか」といってきくと、いつでも、その松井の家の定まった返事の通りに、婢衆は、
「藤村さんは今留守どす」という。
 これまでとても、彼女が家にいてさえ一応はそんな返事をするのが癖なのであったが札が取れているのでは、留守であることは問わずとも知れている。それでも、女がそこの家にいる時分と同じように、いつもの「留守どす」で、返事を済ませている。もちろんこちらが誰であるか、知っているはずもないのだが、もし知れていたならば、一層不愛想な返事をしたかも知れぬ。私は、ひたすら紙よりも薄い人情の冷たさを、夜の冷気とともに身に沁《し》みて感じながら、重ねて委《くわ》しいことを訊こうとする気力も抜けてしまい、胸の中が空洞《うつろ》になったような心持で、足の踏み度も覚えず、そのまま喪然《そうぜん》として電車に乗り、上京《かみぎょう》の方の宿に戻《もど》ってきた。とてもその勢いで取って返し、その家に訪ねていって、名札の取れて、もういなくなってしまった事情を訊ねてみる力は失《な》くなってしまったのである。そして足かけ五年の間真実死ぬほど思いつめたあげくが、こんなことになってしまったと思うと、何より自分という者が可哀《かわい》そうになって来て、冬の夜の寒い電車の中にじっと腰を掛けていてさえ、ひとりでに悲しい涙が流れ出た。
 名札が取れて女がいなくなったにしても、もとよりどこを当てに訊ねるわけにも行かず、ましてそれが他の男に落籍されてしまったのであるとすれば、今ごろは、こちらのことを――もし知っているとすれば――「阿呆《あほう》め」とでもいって、好い心持になっているであろう。それを思いこれをおもい、この冬の寒い夜風の中を気狂《きちが》いになって飛びまわってもしかたがない。今夜はこのまま宿に帰り、哀れな自分をいたわりながら、どうかじっと寝ながらよく考えよう。
 そう思って、宿にかえり、自分の部屋に通って、火鉢《ひばち》の傍に一旦《いったん》坐って、心を落ち着けようとしてみたが、とても、もっと委しい事情を訊き糺《ただ》さねばそのままに寝られるどころではない。それで、その宿には電話がないので、いつも借りつけになっている、近処の家まで出ていって、また彼女のいた祇園町の家へ電話を掛けてみた。
 すると、初めはやっぱりさっきと同じことをいっていたが、こちらの名を明かして、実は、さっきそちらの前を通りかかって、ふと見ると、藤村の名札が取れているのを見てはじめて気がついたのであるといって、
「留守じゃない、もうあんたの家にはいないんだろう」
と訊ねると向うの婢衆《おなごしゅ》は、
「ほんならちょっと待ってくれやす」といって、しばらくして今度は変った、すこし年をとった女の声で、
「藤村さんは、もう内にいやはりゃしまへんのどっせ」という。
「どうしていなくなったの。だれかお客さんに引かされたの?」
「さあ、わたし、そんなこと、どや、よう知りまへんけど、病気でもうとうに引かはりました」
「そして、病気で廃めて、藤村さんのおかあさんが連れて去《い》ったの?」
「ちがいます。小父さんが来て連れていかはりました」
 小父さんが来て連れて往った。どんな小父さんか知れたものじゃないと思ったが、それ以上、電話でそんな婢衆などに訊いても委しいことの知られようわけもなく、また真実のことをいって明かすはずもないと思って、私はそれで電話を切ってしまった。そして、仮に※[#「言+虚」、第4水準2−88−74、431−上−15]《うそ》にしても……※[#「言+虚」、第4水準2−88−74、431−上−16]にちがいないと思うが……病気で廃めたというだけのことに、せめて幾らか頼みの綱が繋《つな》がっているような気がして、それだけに心に少し勢いがついて、宿にとって返し、夜の寒さに風邪を恐れながら、思いきって厚着になり、また祇園町へと出かけていった。今から二た月前の九月の末、紀州の旅から京都に帰って来て、久しぶりに会ったばかりの、多年東京で懇親《ねんごろ》にしていた知人がつい二十日《はつか》ばかり前、自分も田舎に往って流行風邪《はやりかぜ》で臥《ふ》せっている時に流行感冒であえなく死んだということが強く胸に刻みつけられているので、不幸なる自分がまた風邪にでも罹って、このまま死にでもしたら、どんなに悲惨であろう、そんなことがあったら執念が残ってとても死にきれはせぬ。
 そんなことまでも考えながらまた祇園町まで出て来ると、十一月末の夜は闌《ふ》けていても、廓の居まわりはさすがにまだ宵の口のように明るくて、多勢の抱妓《かかえ》を置い
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