狂乱
近松秋江

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)永《とこし》え

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)三十|恰好《かっこう》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「言+虚」、第4水準2−88−74、415−上−4]
−−

     一

 二人の男の写真は仏壇の中から発見されたのである。それが、もう現世にいない人間であることは、ひとりでに分っているのだが、こうして、死んだ後までも彼らが永《とこし》えに、彼女の胸に懐《なつ》かしい思い出の影像となって留《とど》まっていると思えば、やっぱり、私は、捕捉《ほそく》することの出来ないような、変な嫉妬《しっと》を感じずにはいられなかった。そして今、何人にも妨げられないで、彼女を自分ひとりの所有《もの》にして楽しんでいる限りなき歓《よろこ》びが、そのためにたちまち索然として、生命《いのち》にも換えがたい大切な宝がつまらない物のような気持になった。しかし、また思いなおすと、彼らは、どのくらい女に思われていたか、私よりは深く思われていたか、そうでなかったか、わからぬにしても写真を仏壇に祀《まつ》られるようになったのでは、結局この私よりもあの男たちは不幸な人間であった。そう思うと、死んだ人間が気の毒にもなった。
「そんなに隠さないで、ちょっと見せたっていいじゃないか。それは好きな人の写真だろう。どうせここへ祀ってあるくらいだから、死んだ人に相違ない。生きているころ世話になった人なら、祀って上げるのが当りまえだ」さばけた気持でそう言って、私は写真の面影をなお追うような心持になったが、女は瞬《またた》く間に、数の多い、どこかそこらの箪笥《たんす》の小抽斗《こひきだし》にそれを隠してしまった。
 羽織袴《はおりはかま》を着けている三十|恰好《かっこう》の男はくりくりした二重瞼《ふたえまぶた》の、鼻の下の髭《ひげ》を短く刈っていたりするのが、あとの四十年配の洋装の男よりも安っぽく思われた。そしてそれが、ずっと前から、ちょいちょい私の耳に入っていた、女と大分深い関係であったという男のように直感させた。ある日本画の画家で女と噂《うわさ》の高かった男が去年の夏ごろ死んだということを聞いていたので、それを思いうかべた。
「和服を着ていた人間は、何だか活動の弁士のようじゃないか」私は幾らか胸苦しい反感をもってそういうと、
「何でも構いまへん。あの人たちが生きてたら、私、もうとうにこんな商売してえしまへん」
 女は向うをむいて、せっせと、取り拡《ひろ》げた着物を畳みながらこちらの言葉にわざと反抗するように、そう言っている。私は、そんな言葉を聴《き》かされると、また、あまり好い心地《ここち》はしなかった。そして腹の中で、
「それじゃ、四、五年も前から、自分ばかりに、身体《からだ》の始末をつけてもらいたいようにいって頼んでいたのは、みんな※[#「言+虚」、第4水準2−88−74、415−上−4]《うそ》であったかも知れぬ」と思ったが、女の厭《いや》がるようなことを、くどく追窮して訊《き》くのはかえって好くないと思って、黙っておいた。
 けれども、もう此間《こないだ》から訊こう訊こうと思って、幾度もいい出しかけては、差し控えていた、女の借金が今どうなっているか、また自分が長い間仕送った金が、その借金を減らすために、どういう具合に有効に使用せられているか否かを明細に訊きたいと思った。女は、そのことを突っ込んで訊かれるのが、痛いところへ触《さわ》られるようで、なるたけ訊かれずに、そうっとしておきたい風があるのは、今年のまだ正月時分から、その金の使途について、急にやかましく、私から訊《たず》ねてよこした再三再四の手紙に対する返事で一向要領を得なかったのでも、それがわかっているし、今度京都に来て、先日《こないだ》から、祇園町《ぎおんまち》の茶屋で久しぶりに逢《あ》った時にも、それを言うと、妙に話を脇《わき》へそらすようにするし、そうかといって、女のいうままに下河原《しもがわら》の旅館の方にいって要領を得た話を訊こうとしても、そこでもなるべくそんな話はいい出さないようにして、一寸|遁《のが》れに逃《のが》れておりたいのが見えていた。そして、あの晩とうとう自分をこの二階に伴《つ》れて来たのであったが、こうして、しばらくでも女と一緒にいて、母親にもともどもに大事にせられていると、長い間自分の望んでいた願いが叶《かな》ったようなものであるが、女の身体が今におき、やっぱり、借金のために廓《くるわ》に繋《つな》がっているのであっては、目前の歓楽はうたかたのごとくはかない。
「着物がそんなに出来たのも好いことだが、あんたの借金の方は一体どうなっているの? 着物は、あんたの身が自由になった後に、ぽつぽつ出来る。それよりも急ぐのは今の商売を廃《よ》して、綺麗《きれい》に脚《あし》を洗うことじゃないか」
 しばらくしてから私はなんどり訊いてみた。すると女も母親も黙っていたが、私が繰り返して、
「ねえ、どうなっているの」というので、女は、
「借金はまだ大分あります」という。
「大分ありますって、どのくらいあるの」
「さあ、まだ千円ちかくありますやろ」
 彼女は、わざと陽《うわべ》に反抗の意を表わして、誠意の籠《こ》もらないような口吻《こうふん》で、そういう。それで私はまたむっとなり、
「千円?」自分の耳を疑うように、重ねて、言葉を強くして訊いた。
 けれども女は黙りこくっている。
「まだそんなにあるの?」私の声は、自然に上ずってきた。「そんなにあるはずがないじゃないか。私があんたを初めて知った四、五年前にそのくらいあると言っていた。そしてそれだけの物は私から一度に纏《まと》めてではないが確かに来ている。あれから四、五年も稼《かせ》いでいて、そのうえそれだけの金も手に入っていて、今になってもやっぱり四、五年前と少しも借金が減っていないというようなことで、それで、あんた、どうするつもりなの?」私は、次の間の長火鉢《ながひばち》のところにいる母親にも聞えるように、畳みかけて問いつめた。
 すると女はまた棄《す》て鉢《ばち》のように、
「そやからもうあんたはんの世話になりまへん。私自分で自分の体《からだ》の解決をつけますよって、どうぞ心配せんとおいとくれやす」
 私は呆《あき》れた顔をして、そんなことをいう女の顔をしばらくじっと見ていた。
「もうあんたはんのお世話になりまへんて、それじゃお前、今までどんな考えで私にいろんなことを頼んでいたの。あんたの体の解決をするために、私は出来るだけのことをしたのじゃないか。今になってそんなことをいっては、何のことはない、まるで私を騙《かた》っていたようなものじゃないか」
 そういうと、女は返答に窮したように黙って焦《じ》れ焦れしながら、肩で大きな息をしているばかりである。
「ねえ、私の送って上げた金は一体何に使ったの、……そりゃ、こんな着類をこしらえるにもいったろうが、私自身にも欲《ほ》しい物や買いたいものが幾らもあるのを、そんな物より何より私には、ただただお前という者が欲しいために、出来ぬ中から私の力に能《あた》う限りのことをして来たのじゃないか。まとまっていないといっても、二百円三百円と纏まった金を送ったこともある。それは、あんたも覚えているはずだ。私にとっては血の出るようなその金を、これと言って使い途《みち》のわからぬようなことに使って、今になってもまだそんなに借金がある。……私はこうしてあんたに逢うのも、何度もいうとおり、去年の一月からちょうど一年と半歳《はんとし》ぶりだ。始終この京都の土地に居付いているわけじゃないから委《くわ》しいことは知らぬが、あんたが私から貰《もら》う金をほかの人間に貢《みつ》いでいるという噂を、ちらちら耳にしたこともあったけれども、私はそれを真実とは思わないが、どうも、借金がなおそんなにあるはずはないと思う。もっと私の納得するように本当のことをいって聴かしてもらいたい。私が今までお前に尽している真心がお前にわかっているなら、もっと本当のことを打ち融《と》けて聴かしてくれてもいいと思う」私はそれでもなるべく女の気に障《さわ》らぬように、言葉のはしばしを注意しながら、そういった。
 すると彼女は、いよいよ言うことに詰ったと思われて、畳んでしまった着物をそこに積み重ねたまま、箪笥の前に凭《もた》れかかってじっとしていたが、ヒステリックに、黒い、大きな眼を白眼ばかりのようにかっと※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、417−上−4]《みひら》いて、
「わたし何も、引いてからあんたはんのところへ行く約束した覚えありまへん」と、早口にいった。
 そのあまりに凄《すさ》まじい相好に私はびっくりして、そのままややしばらく口を噤《つぐ》んでいたが、
「今になってそんなことを言っている」と、言葉を和らげていうと、女もすぐ静かな調子になって、
「あんたはんが、ただ自分ひとりでそうお思いやしたのどすやろ」
「私が自分ひとりでそう思った?……あんたの体を解決することを」
「ええ、そうどす」
「私が自分ひとりでそう思ったって、あんたの方でも依頼したから送る物を送っていたのじゃないか。いくら私がお前を好いていたって、そっちでも頼まないものを、どこに、自分の身を詰めてまで仕送る道理がない」
「そやけど、あんたはん、初めの時分は、私にそうおいいやしたやおへんか。自分はお前を可哀《かわい》そうや思うて恵んでやるさかい。後になって私のところにお前が来る気があったら来てもええ、その気がなかったら来てもらわいでもええ。……私そのつもりでいました」彼女は静かな調子ですこし人を戯弄《からか》うようにいう。
 なるほどそう言えば、ぼんやりしているようでも、女がよく記憶しているとおりに、彼女に、ずっと初めに金品などをくれてやった時分には、そんなことを言ったように思う。それは、女にどんな深い関係の人間があるかわからないための、こちらの遠慮であると同時に、また自分の方へ彼女を靡《なび》き寄せようとする手もまじっていたのであった。けれども女の方でも後には、そんな考えでのみこちらの扶助を甘んじて受けていなかったことは、長い間の経緯《いきさつ》で否応《いやおう》なしに承知しているはずであった。
「うむ、それは、あんたのいうとおり、初めはそんなことを言っていたことも覚えている。けれどもお前もだんだん、そんなつもりばかりで私に長い間依頼していたのではなかったろう」
 そういうと、女はそれに何といって応《こた》えたらいいかと、ちょっと考えているようであったが、
「そない金々て、お金のことをいわんとおいとくれやす」と、また口を突いていった。
 それで、大分心が平静に復《かえ》っていた自分はまた感情が激してきて、
「金のことをいわんとおいてくれて、私は好んで金のことをいいたくはない。けれども出来ぬ中から無理をして出来る限りのことをして上げたというのは、そこに、とても一口では言い尽すことのできぬ私の真心が籠《こ》もっているからじゃないか。何も金が惜しいのでいうのじゃない」
 女はやっぱり箪笥に凭《よ》りかかりながら、
「それはようわかってます。……そやからお金をお返ししますいうてます。何ぼお返ししまよ」
「いや、私は金が返してほしいのじゃない。今お前がいうように、私がこれまでしたことが、ようわかっているなら、少しも早くその商売を止《や》めてもらいたい」
 女はそれに対して確答を与えようとはしないで、
「お金をお返ししさえすりゃ、あんたはんに、そんな心配してもらわんかてよろしいやろ」
 私の静まりかけている心はまたしても女の言いようで激してくるのであった。
「お前は、お金をどれだけか私に戻《もど》しさえすれば、それで私と今までのことが済むと思っているのか」
 私は金を返そうと主張する女の心の奥に潜んでいる何物かをじっと疑ってみた。それで、そうなれば
次へ
全9ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング