ているうえに、お茶屋を兼ねている松井の内では今がちょうど潮時のようないそがしさである。
小父さんといっても、何だか分りはせぬ。ほかの男に引かされたものを、よく恥かしげもなく、商売していた女の廃めた後を探ねて来る阿呆な男と笑われはせぬかという気が先きに立って、心が後《おく》れるのを、そんなことを恥かしいと思って、引込み思案でいては、ますます自分の身一つを苦しめるばかりであると思い直して、勇気をつけ、松井の入口に立って、その夏の初め、女の家にいたころちょっと顔を見て、言葉を交わしたことのあるお繁《しげ》さんという婆さんにお目にかかりたいと、そこに出て来た婢衆に取次ぎを頼むと、お繁婆さんは、すぐ奥から出て来た。
それはもう五十を少し過ぎた女であったが、何でも聞くところによると、もと此家《ここ》の女あるじと同じく今から二、三十年前にやっぱり祇園町で商売に出ていたことのある女で、松井の主人が運の好いのに反して、この方は運[#「運」は底本では「連」と誤植、432−上−3]が悪かった。そして以前|朋輩《ほうばい》であった人間の内へ女中|頭《がしら》のような相談相手のようにして住み込んでいるのであった。松井の女あるじの今なお一見、二、三十年前この土地で全盛を謡《うた》われたことを偲《しの》ばしめるに反して、お繁婆さんの方は標致《きりょう》もわるく、見るから花車婆《やりてばあ》さんのような顔をしていた。それでも話してみると、わけは割合によくわかる方で、お繁さんは笑顔で、
「おこしやす。えらいお久しぶりどす」と、いって、打ち融《と》けて挨拶《あいさつ》をして、
「えらい端の方でお気の毒さんどすが、今ちょっと奥が取り込んでいますよって、ここで失礼いたします」と、いって、婢衆《おなごしゅ》に座蒲団を持って来さして、私にすすめる。
「ええ、もう、どうぞ構わないで下さい」と、私は小さくなって、そこの玄関の二畳の間に差し向って坐った。
そこで、さっき電話で聞いた女のことを改めて問い糺すと、お繁さんは、率直な調子で、
「お園さんはもう半月ばかり前にひどい病気になりまして、それで引きました」
「はあ、ひどい病気で……」私は、そういって、すぐ心の中ではあの繊細《かぼそ》い彼女の美しく病み疲れた容姿《すがた》を思い描きながら、
「この土地に長くいると、そんなことになるだろうと思っていたのだ。だから……」と、ひとり言のようにいって、もう、私の眼には涙がにじんで来た。
「そして、ひどい病気とはどんな病気でした?」静かに訊いた。私は、彼女の体質や容姿から想像すると、多分肺でも悪くなったのではあるまいかと思った。そして、もしそうであったならば、一層|可憐《かれん》でたまらないような気がしてくるのであった。
するとお繁さんは黙って意味ありげに笑いながら、私の顔を見るだけで、その病気が何であるか言おうとしない。それで、これは真実《ほんとう》は病気ではない。病気というのは偽りで、やっぱり旦那《だんな》にでも引かされて、今ごろはどこかそこらに好い気持で納まっているのだなと感疑《かんぐ》りながら、こちらも、つとめて心を取り乱さぬようにわざと平気に笑いにまぎらわして、
「※[#「言+虚」、第4水準2−88−74、読みは「うそ」、432−下−17]でしょう、病気というのは」重ねて訊くと、
「いえ、病気はほんまどす」といって、まだ笑って真相を語ろうとせぬ。
「どんな病気です?」私は、今度は、商売柄恥かしいひどい病気でもあるのかとも思った。
すると、お繁婆さんはやっぱり笑いながら、
「お園さん、気狂いになったのどす」と率直にいう。
「へえ、気狂いになった!」私は、しばらく呆然《ぼうぜん》として対手《あいて》の顔をじっと見つめていた。
「一体どうして、そんなことになったのです」
お繁婆さんが話して聴かすところによると、先月の末か今月の初めごろ、彼女も、瞬《またた》く間に流行してきた流行感冒に襲われて一時は三十九度から四十度近い発熱で心配するほどであったが、熱は間もなく下り、風邪も一週間くらいで癒《なお》るにはなおったが、すっかり熱が除《と》れて、ようよう起き上がることが出来るようになった時分に、ふっと間違ったことを口に言い出した。初めは皆なも、平常《ふだん》から、あんな温順《おとな》しいに似ず、どうかすると、よく軽い戯談《じょうだん》などを言ったりすることもあるので、
「お園さん、何いうてはるのや」と、笑って、いつもの戯談かと思っていると、本人はあくまでも真顔でいるので、これは、どうもいつもとは少し様子が違って変だなと思っていると、彼女はだんだん妙な違ったことをいうようになった。そして眼つきがおそろしく据《すわ》ったようになって、そうなくてさえ、平常から陰欝《いんうつ》になりがちの顔が、一層恐い顔になった。家にいる他の妓《こ》たちはまたそれを面白がって、対手になって戯弄《からか》うと、彼女は生真面目《きまじめ》な顔をしてそれに受け応《こた》えをしているという有様である。
お繁さんはおかしそうに笑いながら、
「そんな具合でもう気の毒で見ていられまへんがな。ほて、もう、わたし、あんた方、そんなつまらんこと言うてお園さん戯弄《なぶ》らんとおいとくれやすいうて、小言いうてました」
私は、それを聴いて身にしみて悲惨を感じながら、じっと涙を飲み込むようにして、
「飛んだことになってしまったものですなあ」と、あとの言葉も出でずに黙って太息《ためいき》を吐《つ》いていた。
「もう、どだい、いうことがなってへんのどすもの」お繁婆さんは変なハイカラの言葉に力を入れていう。
そんな有様で、とてもこの先続けて商売など出来そうにないところから、母親のほかに西京《にし》の方にいるという母方の叔父《おじ》にも来てもらって、話を着け、お繁さんが附き添うて管轄の警察署へ行って、営業の鑑札を返納して来たというのである。お繁婆さんはなおおかしそうに、
「警察へいても、お園さん真面目な顔をして役人に怒鳴りつけるようなことをいうもんやから、わたし、傍に付き添うていてはらはらしてました」
私は思わず寂しい笑いを洩《も》らしながら、
「なるほどそういうわけじゃしようがありませんな。そして、今どこにいるでしょう」
「さあ、その時叔父さんに伴《つ》れられて帰ったきり、どこにいるのかそれなりでちょっとも音信《たより》がないそうにおす。わたしもそれから用事で大阪の方に往《い》てきまして、今日帰ったばかりのとこどすよって。今日も、あんたはんから訊かれる前に、お園さん、ちょっとも音信がないなあ、どないしてはるやろ言うて噂《うわさ》してましたところどす」
なるほど叔父のあることは前から知っていたけれど、私はなおもその叔父さんというのははたして真実《ほんとう》の叔父さんに違いあるまいかと疑ったので、念を押すように、
「叔父さんといって、その実旦那じゃありませんか。こんな土地じゃ、こう申しちゃ、何ですが、裏にうらがあるのが習わしですからな」と、捌《さば》けた調子で、対手の口うらを引いてみたが、お繁は言下に、
「あの人旦那なんてありゃしまへん。そりゃ本当の叔父さんどす」
「その叔父のいるところはどこでしょう。あんた知っていませんか」
「さあ、それも、わたしどこや、よう知りまへんけど」と、小頸《こくび》を傾けるようにして、「何でも三条とか、油の小路とか聴いたように思うけど、委しいことは、よう知りまへん」と、真実知っていなそうである。
私はなお、もっと委しいことを、ああもこうもと訊ねたいと思ったが、家の内が急がしそうにしているのと、向うがはたして誠意をもって話してくれているのか、どうか半信半疑なので、いい加減にして出て戻ろうとして、まだ立ちにくそうにしながら、
「いろいろありがとうございました。あなたにお眼にかかって、様子が一と通り分りました」
私は、この上にもなお向うの誠意を哀求するような心持で丁寧にお礼をいった。幾度思ってみても、全く自分の生命《いのち》にも換えがたい女である。その女のゆえならば、いかなる屈辱をあえてしても決して厭わないと思っていたのである。
お繁婆さんは、
「ああそれからあんたはんのお手紙が来ているのも知ってます。たしか二度来てたかと思ってます。前のはお園さんが自分で受け取ってたしか見ていました。後のはここにおらんようになってから来ましたよって、私が預かっておきました」
といって、彼女は奥に立って往き、三、四本の、女にあてて来ている封書を、私から越《おこ》したのと一緒に持って出てきた。それを見ると、中の一つは自分のちょっと知っている、ある男からの文《ふみ》であった。私は、それを一目みると何とも言えない厭《いや》な気持になって、「あの人間が!」と、ちょうどウロンスキイが、自分の熱愛しているアンナの夫のカレニンの風貌《ふうぼう》を見て穢《けが》らわしい心持になったと同じような気がして、その瞬間たちまち、自分が長い年月をかけて宝玉のごとくに切愛していた彼女が終生いかんともすべからざる傷物になったかのように思われて、またもやがっかり失望してしまった。女がいなくなったことがすでに自分には生命《いのち》を断たれたと同じ心地《ここち》がしているのに、自分が一面識のある人間とも知っていたのかと思うと、私はあまりに運命の神の冷酷やら皮肉やらを悲しみかつ嘆かずにはいられなかった。しかし、それも、皆な自分の愚かゆえである。こうした売笑の女に恋するからは、それはありがちのことである。西鶴《さいかく》もとうの昔にそれを言っている。今こんなことがあると知ったのを好い思いきり時に、いっそここで、これっきり女を綺麗《きれい》さっぱりと思い断《き》ってしまおうか、そうすると、この心の悩ましさを解脱することが出来て、どんなに胸が透くであろう。そして決然としてすぐにも東京へ帰って行って、多年女ゆえに怠っている自分の天職に全心を傾倒しよう。どうかして、そういう心になりたい、と思いながら、私は、膝《ひざ》の前に置かれたそれらの男からの手紙をじっと見つめながら、封の中にどんなことを書いてあるのか、出来ることならば、封を切って中を読んでみたいように思った。差し出したところを見ると、どこか地方に行っていて、その旅先から出したものらしいから、その男も、女が気が変になって、商売を廃めてこの土地から消え失《う》せたことは知らずにいるのであろう。……私がそうして、じっとそれらの封書に見入っているので、お繁はどう思ったか、
「この人はほんの五、六度知ってるだけどす。私もちょっと顔を見て知ってます。あれはどこのお客やったか」と考えるようにして、
「たしか、井の政のお客やったと思う。去年の春からのお客どした。……こうして人さんの手紙どすさかい、中を読んで見るわけにもいきまへんしなあ」と、私を慰め顔に言う。
「いえいえ、なにこの手紙を見たいと思ってるわけじゃありません。……ただお園が、叔父さんに連れられていったきりで、今どこにいるのか、私も、あなたも御存じのとおり、もう長い間心配していた、あの女のことですから、ぜひ一遍会って、病気の様子を見たいと思って……」と、私は、どこへ取りつく島もないような気がして、そういうと、お繁婆さんも、さすがに同情のある調子でうなずきながら、
「ええええ、あんたはんのことは、皆な、もうよう知ってます。どこにいやはるか、ここにおらんようになってからでも、もう半月くらいになりますよってなあ」
私はなおも繰り返して、そのうちにも自然居処が知れるようなことがあったら、是非知らしてほしいとくれぐれも嘆願するように頼んでおいて、ようようそこを出て戻った。
六
外に出ると、もう十二時を過ぎているので、お茶屋へ往き交う者のほかは人脚も疎《まば》らになって、冷たい夜の風の中に、表の通りの方を歩く下駄《げた》の足音ばかりが、凍《い》てついた地のうえに高くひびいているばかりであった。
そして、気が狂って叔父に連れられて、どこへ往っ
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