二人で柳沢さんのところにいって見ようか」と思い立ったようにいった。
私は、また柳沢とお宮と並べておいて二人がどうするか見たいと思ったから、
「ああ行って見よう」といって、それから二人で柳沢の家に行った。
柳沢は例《いつも》のとおり二階の机の前に趺座《あぐら》をかいていたが私たちが上っていったのを見て、笑うのは厭だというような顔をして黙り込んでまじまじ他《ひと》の顔を瞻《みまも》っていた。
「書生の家だから、何にもないだろう」
お宮がそこらを見廻しているのを見て、柳沢はそういった。
「好い家ねえ。こんなところにいたらさぞ勉強出来ていいでしょう」お宮は腹からいうようにいった。
私は畳が冷たかったから、自身で床の間に積んであった座蒲団を取って来て敷いた。
するとお宮はそれを見て、
「あなた自分のだけ取って来て私のは取って来てくれないの」ぷりぷりしていった。
私は聞いて呆れながら、お宮は、私がそんなにして女の気嫌《きげん》を取るほど惚れていると自惚《うぬぼ》れているのだろうかと思って柳沢の顔を見た。柳沢もお宮のいうことがあまりに妙なことをいうとでも思ったか私と顔を見合わせて笑った。
「俺は、そんなにしてまで君の気嫌を取らなくってもいいのだ。ははは」
そういって、私はわざと声高に笑った。
お宮は不貞た面をふくらして黙りこんでいたが、しばらくして私の顔をジロジロと汚《きたな》そうに瞻りながら、
「あなたその顔はどうしたの?」
柳沢もそれにつれて私の顔を汚そうに見てにやりにやり笑っていた。
私の顔はその時分口にするさえ浅ましい顔をしていた。まだ去年の秋お宮のところへ二度めか三度めにいった時|翌朝《あくるあさ》帰って気がつくと飛んだことになっていた。医師に見てもらうとその病気《やまい》だといって手当てをしてくれたけれど、別に痛くも何ともなかったから、そのままうっちゃっておいた。それが一月の末時分から口や鼻のまわりから頭髪《あたま》に小《ち》さい腫物《ふきでもの》のようなものが出来て来たからまた医者に行って見てもらうと医者は、顔を渋《しか》めて、
「ああ、来た……。ちょうどあれがこうなって来る時分だ」といって、いろいろ手当てをしてくれて「ひとしきり頭髪《かみ》が脱《ぬ》けてしまうよ……ナニまたじき生《は》えるのは生えるけれど」そういった。
はたして医者のいったとおりに顔の吹出物はだんだん劇《はげ》しくなって人前に出されない顔になった。そうなると私は故郷《くに》に年を取っている一人の母親のことを思った。
親が満足に産みつけてくれた身体《からだ》にもし生涯《しょうがい》人前に出ることの出来ないような不具な顔にでもなったら、どうしよう。そのことを考えるとまた夜の眼も眠られないことがあった。お前のことといい、たとい高等地獄とはいいながらお宮の義理人情に叛《そむ》いた仕方といい、その上にお宮から感染した忌わしい病のために一生不具の身となるようなことがあっては年を取った一人の親に対して申しわけがない。
お宮が私に叛いて柳沢に心を寄せて行っても、私はその浅ましい汚らわしい顔を恥じてじっと陰忍していた。皆を殺して自殺をしようかと思った。
「どうしたって、これはお前からもらった病気だ」
「ふむ?……」お宮はそういったきりしばらく黙っていたが、
「何んだ! あんまり道楽をするからそんなことになるんだ。……おかみさんにも道楽をするから棄《す》てられたんだろう。……おかみさんどっかで妾をしているというじゃないか」
そういってお宮は荒い口も利かぬように堪《こら》えている私に毒づいた。そして今お宮のいったことでまたグッと癪《しゃく》に障ったというのは、おかみさんは妾をしているというじゃないかといった一言だ。私は、お前がもしそういうことをしておりはしないかという心当りがあったから、いつか柳沢にだけはそれを打ち明けて話したことがあった。柳沢から私の蔭口に聞いたのでなければお宮がそんなことを口に出すはずがない。
私はそう思ってじっと柳沢の顔とお宮の顔とを見合わした。柳沢は、私がいつかそういうことを話したのを、柳沢だからそんなことをも打ち明かしたのだと思うよりも、そんなことを他人《ひと》に話した私を、腹の中では馬鹿だと嘲笑《あざわら》いながら聞いておいて、そうして私とお宮との仲をちくりちくりとつっつくためにそれを利用したのだろう。
私はいきなり立ち上って二人を蹴飛《けと》ばしてやろうかと、むらむらとなったが、また手紙のことを思い出してじっと胸をさすって耐《こら》えた。
どうして私がそんなにお宮にやっている手紙のことを気にするかというのに、私は今度のお宮のことについても、お宮に向って柳沢のことを露ほども蔭口めいたことをいっていない。ただ一番近くにやった手紙に、柳沢のことを一と口いってあった。それをどうかして柳沢の手に巻きあげられて見られるのが厭だ。そうかといってその手紙にも決してそんな悪口などをいってあるのではなかった。柳沢が私の蔭口をきき、また私の方でもちょうど柳沢のするとおりに柳沢の蔭口をいっているであろうとは、かねて柳沢が邪推しているのだが、私はこれまでそんなことは少しもない。しかるに高等地獄に与えたたった一本のその手紙ゆえに柳沢の平生の邪推を確実なものにするということが私には何よりも耐えられなかったのである。
「柳沢さんのところを、いくら訊いても教えないんだもの」
黙っている私に、おっ被《かぶ》せてお宮はまた毒づいた。
柳沢は、私が教えなかった心持ちを読んだような鋭い黒眼をしてにやりにやり笑っていた。
けれども柳沢とお宮との関係がどんなになっているかは、まだよく分らなかった。
柳沢は、お宮が私に向ってそんなに悪態を吐《つ》いている間もしょっちゅう意味ありげににやりにやりと笑ってばかりいた。
「もう帰ろう」私はお宮を促した。
「ええ」といったきりお宮は尻《しり》を上げようとはしなかった。
「あなたまだ社へ行かないの」
「まだゆかない」お宮は柳沢に対っては優しい口をきいている。
「おいもう帰ろう」しばらくしてまた私はお宮を促した。
「あなた帰るならお帰んなさい。私もっといるから」
私は、自分がもし一人で先帰ったら後で二人どんな話しをするか、それが気づかわれた。私は、お宮が柳沢とすでに二、三日前に三日も蠣殻町の待合に居続けして逢っていることをちっとも知らなかったのだ。
それでお宮にそういわれても私は一人で起《た》とうとせず、やっぱりお宮を促して待っていた。
「ああ帰ろう」と、いってお宮はとうとう立ち上りそうにした。
私はもう起ち上った。
「すぐ行くよ。あなた階下《した》に降りて待ってて下さい」
そういってお宮は何か柳沢に用ありそうにぐずぐずしている。
それを見ては、私もそこにいるのが気が咎《とが》めたからさっさっと降りてしまった。
やがて五分間ばかりしてお宮は降りて来た。そして私のいる加藤の家を出る時はろくろく挨拶《あいさつ》もしなかったお宮が柳沢のところの老婢《ばあさん》に対《むか》ってぺったり座って何様のお嬢さんかというように行儀よく挨拶をしていた。
いろいろな素振りで、私にはもうお宮の私と柳沢とに対する本心がわかったから、私は怨恨《うらみ》と失望とに胸を閉されつつ、どうかして私からお宮にやっている手紙を取り返すことに苦心した。
二、三日立ってからであった。私にはふとしたことから柳沢とお宮とがどこかで逢っているような気がしてたまらない。それで柳沢の家を覗いて見ると老婢《ばあさん》が一人留守をしていて柳沢はいない。いよいよお宮のところにいっているに違いないと思うと、ますます手紙のことが気になりだした。で、すぐその足でお宮を置いている家までやって行った。
八時ごろだったから売女《おんな》は大方出ていって家内《うち》は女中のお清が独り留守をしていた。
「お主婦《かみ》さんはどうしたの」といいながら私は例《いつも》の通り長火鉢の向うに坐った。
「おかみさんも今ちょっと出ていませんよ」
「宮ちゃんは今日どこ?」
「ちょっとそこまで行っています」
「今晩は帰らないだろう」
「ええ、帰りませんでしょうなあ」
私は、もうどうしても柳沢と逢っているに違いないような気がして来た。
「いつから行っているの?」
「もう大分前からですよ」
「大分前からって、いつごろから?」
「そうですなあ。もう一昨日《おととい》、その前の日あたりからでしょう」
「一人のお客のところへそんなにいっているの?」
「ええ、そうでしょう。私よく知らないんですよ。……あなた大変気にしているのねえ」
「気にしているというわけもないが、……どこの待合?」
「……さあどこか、私知らないのよ」
「お清さん君知らないことはないだろう。教えてくれないか」
「そりゃ言えないの」
「いえないのは知っているが、教えてくれたまえ」
そんなことを戯談《じょうだん》半分にいいながら、お清がお勝手口の方へちょっと出ていった間にふっと火鉢の上の柱に懸かっている入花帳《ぎょくちょう》が眼に着いたので、そっと取りはずして手早く繰って見ると、お宮が一昨日からずっと行っている待合が分った。
その待合は、いつか清月も柳沢に知れているから他にどこか好いところはないだろうかとお宮に相談したら、じゃ有馬学校の裏にこういう待合があるからといって教えてくれたその待合である。
「ははあ、じゃあすこに行っているな。すると柳沢と違うかな。それとも柳沢もそこへ連れ込んでいるのだろうか」
そんなことを考えながら、お宮のいっている先がそう分ってしまえばもうお清なんかに用はない。
「お清さん、主婦《おかみ》さんはどこへいったんだね。大変|遅《おそ》いじゃないか」
「ええ、大変遅うございますねえ、大方活動へでも行ったんでしょう」
「そうか。じゃ僕はまた来ます。お留守にお邪魔しました」
「まあ好いでしょう。お宮ちゃんがいないからって、そう早く帰らなくってもいいでしょう。今におかみさんも帰って来ますよ」
そこを出ると私は心を空《そら》にして有馬学校の裏に急いだ。二月も末になると、もう何となく春の宵《よい》めいた暖かい夜風が頬《ほお》をなでて、曇りがちな浮気な空から大粒な雨がぽたりぽたりと顔に降りかかった。
その待合にいって、私の名をいわずにそっとお宮を下に呼んでもらった。
「便処にゆくことにしてこちらにまいりますから、どうぞ処室《ここ》でしばらくお待ち下さいまし」
物馴《ものな》れた水戸訛《みとなま》りの主婦が出て来て私を階下《した》の奥まった座敷に通した。
間もなくお宮は酒に赤く火照《ほて》った頬を抑《おさ》えながら入って来た。
「あッ、あなたですか。私だれかと思った」
と入りながらちょっと笑顔を見せたが、すぐ不貞《ふて》たような面をして、
「私酒に酔った」独語《ひとりごと》のようにいって頬をなでている。
「だれだえ? お客は?」軽く訊《き》いて見た。
「うむ、誰れでもないの」
「誰れでもないわけはない。だれだろう。それとも君の好きな柳沢さん?」
「うむ、柳沢さんなんか来るものですか。……よく酒を飲む客。一昨日から芸者を上げて騒いでいるの」
そういうところを見ればなるほど柳沢らしくはない。
「そうか。……まあそんなことはどうでもいいとして、この間私の家へ来た時から私には君の心はよく分ったから、とにかく私が君のところにやっている手紙だけそっくり皆な私に返してくれたまえ。君からもらった手紙も私はこうして皆な持って来ているから。君の方から返してくれれば私の方からも皆な返すから……」
そういって私は懐中《ふところ》から、ちょうど折よく持ち合わしていた紫めりんすの風呂敷《ふろしき》の畳んだのを取り出して、
「これこのとおり君の手紙は持っている。私のさえ返してもらえばその時これも返すから」
「私、ここにあなたの手紙なんか持って来ていないもの」
「だから今というんじゃない。君がも一度よく考えて見て、私の方
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