に来てくれるのが厭《いや》ならば、その手紙は私の方に返して欲《ほ》しいというんだ。君は柳沢さんの方にゆくんだろう」
「そりゃ考えて見るけれど、私、柳沢さんなんか、あなたの友達に身を任すなんてそんなことをする気遣《きづか》いはない」
私は何を言うかと思いながら、
「それならそれでいいから、私また一週間ばかりして来るから、その時分までよく考えておいてくれたまえ」そういってそこの待合を出た。
柳沢は行ってはいなかった。
じゃ、いろいろ思いまわしたのが自分の邪推であったろうか、邪推としたら自分は厭な性質をもっている。私自身|他人《ひと》から邪推せられた時ほど厭な心持ちのすることはない。自分はそんな邪推をするような人間を何よりも好かぬ。そんなことを考え考えその晩は加藤の二階に戻って来た。
それから二、三日たって、それでもまだやっぱり柳沢とお宮との間が気になるので柳沢の家にいって見た。
すると柳沢は階下《した》の茶の間で老婢《ばあさん》に給侍《きゅうじ》をさせながら御飯を食べていたが、
「この間うち家にいなかったな」と、いいながら私は火鉢《ひばち》の横に坐った。
「うむ」と、いいながら柳沢は黙って飯を喰《く》っている。
飯が済んでから柳沢は、
「僕は鎌倉《かまくら》へしばらく行って来るつもりだ」と、いう。
「そりゃ好いなあ。いつ?」
「いつって、今日か明日か分らない」
「あれからお宮に会わないかえ?」私は微笑しながら訊《たず》ねた。
「会やしないさ」柳沢は苦い顔をしていった。
「ランプ掃除《そうじ》をしていた神楽坂の女はどうした?」
「あれは、あれっきりさ」
「だってちょっと好い女じゃないか」
「あんまりよくもない。……彼女《あれ》なら君にゆずってもいい」柳沢は戯談《じょうだん》らしゅう笑いながらいった。
私は、はて変なことをいうなあ。と心のうちで思った。
彼女《あれ》なら君にゆずってもいいというのは、彼女《あれ》でない女があるということだ。それはお宮のことである。じゃ、やっぱりお宮のことを柳沢は思っているのだな。そう思いながら私は、
「いや、別に僕はあの女が欲しいのじゃないが」といって笑いながら、
「やっぱりお宮の方が僕は好きだ」と、柳沢の思っていることに気のつかぬもののように無邪気にいった。
「……お宮はどうしても小間使というところだな。……それに襟頸《えりくび》が坊主襟じゃないか」と、柳沢は口の先でちょいとくさすようにいう。
「うむ。それからあの耳が削いだような貧相な厭な耳だ」私も柳沢に和してお宮を貶《けな》した。
「とにかくよく顔の変る女だ」
「うむ、そうだ。君もよく気のつく人間だなあ。実によく顔の変る女だ」
まったくお宮は恐ろしくよく顔の変る女だった。
ややしばらくそんな話しをしていた。
「もう出かけるのか」
「うむ、もう出る」
それで私は柳沢の家を出て戻った。
その翌日《あくるひ》であった、この間お宮に会って話しておいたことをどう考えているか、もう一度よく訊いて見るつもりで、こんどは本当にお宮の手紙を懐中《ふところ》にして蠣殻町に出かけていった。
先だって中からよくお宮の家から一軒おいた隣家《となり》の洋食屋の二階に上ってお客を呼んでいたので、今日もそこにいってよくお宮の思案を訊こうと思って何の気もなく入口のカーテンを頭で分けながら入っていった。
「いらっしゃい!」と、いう声をききながら、土間からすぐ二階にかけた階段《はしごだん》を上ろうとして、ふと上り口に脱ぎすてた男女の下駄《げた》に気がつくと、幅の広い、よく柾《まさ》の通った男の下駄はどうも柳沢の下駄に違いない。
私は、はっと度胸《とむね》を突いて、「柳沢は昨日鎌倉に行ったはずだが」と思いながらなお女下駄をよく見るとそれも紫の鼻緒に見覚えのあるお宮の下駄らしい。ちょうど女の歩きつきの形のままに脱いだ跡が可愛《かわい》らしく嬌態《しな》をしている。それを見ると私はたちまち何ともいえない嫉妬《しっと》を感じた。そうしてややしばらく痛い腫物《しゅもつ》に触《さわ》るような快《い》い心持ちで男と女の二足の下駄をじっと見つめていた。
そうしてじっと階上《うえ》の動静《ようす》に聴《き》き耳を立てていると、はたして柳沢が大きな声で何かいっているのが聞える。どんな話をしているだろうかとなおじっと聴き澄ましていると、洋食屋の小僧が降りて来た。
私は声を立てぬように、
「おい!」と手まねぎして、「お宮ちゃんが来ているのかい?」
「ええ」
「じゃあねえ、私がここにいるといわずにちょっと宮ちゃんを呼んでおくれ」
小僧は階段《はしごだん》をまた二つ三つ上って、
「宮ちゃんちょっと」と呼ぶと、
小僧が階段《はしご》を降りるすぐ後からお宮は降りて来た。そしてもう二つ三つというところまでおりて土間に私が突っ立っているのをちらりと見てとるとお宮は、
「あらッ!![#「!!」は第3水準1−8−75、373−上−7]」と、いったままちょっと段階《だんばしご》の途中に佇立《たちどま》った。そしてまた降りて来た。
その様子を見るとまた身体《からだ》でも良くないと思われて、真白い顔が少し面窶《おもやつ》れがして、櫛巻《くしま》きに結《い》った頭髪《あたま》がほっそりとして見える。
階段《はしごだん》を降りてしまうと、脱いでいた下駄を突っかけていきなり私の傍《そば》に来て寄り添うようにしながら、
「わたし病気よ」と、猫《ねこ》のようにやさしい声を出して、そうっと萎《しお》れかけて見せた。私は、
「この畜生が!」と思いながらも、自分も優しい声をつくって、
「ふむ、そうか。それはいけないねえ」と、いいつつまたお宮の頭髪から足袋《たび》のさきまでじろじろ見まわした。
春着にこしらえたという紫紺色の縮緬《ちりめん》の羽織にお召の二枚重ねをぞろりと着ている。
「こんな着物が着たさに淫売《じごく》をしているのだなあ」と思うと唾《つばき》を吐きかけてやりたい気になりながら、私は鳶衣《とんび》の袖《そで》で和らかにお宮を抱くような格好をして顔を覗《のぞ》いて、「おい、この下駄はだれの下駄?」と、男下駄を指さした。
「…………」
「おい、この下駄はだれの下駄?」
「それは柳沢さんの」
お宮は例《いつも》の癖の泣くような声を出した。
「そうだろう。……洋食屋で朝からお楽しみだねえ」
私は気味のいいように笑った。
「じゃあねえ、先だって君に話したとおり、もう君の心もよく分ったから、どうぞ私から上げてある手紙を返しておくれ」私は一段声をやわらげていった。
「ええ……」と、お宮は躊躇《ため》らうようにしている。
「おい、早くしてくれ。君たちにもお邪魔をして相済まぬから」
「じゃ、ちょっと待って下さい」と、いってお宮はまた二階に上っていった。
私は階下《した》でどかりと椅子《いす》に腰を落して火のごとく燃える胸をじっと鎮《しず》めていた。
二、三十分も経《た》ったけれど、まだお宮は降りて来ぬ。
どうしているのだろう。二階から屋根うらへでも出て二人で逃げたのだろうか。そうだったら後で柳沢の顔を見る時が面白い、それとも上っていって見ようか、いやそいつはよくない。そう思って根よく待っていると、お宮は笑顔を作りつつ降りて来た。
「じゃ手紙をお返ししますから私の家に来て下さいって。自家の主婦さんが」
「自家の主婦さんて、お前んとこの主婦さんに何も用はない」
そういいつつ私は一軒置いた先のお宮の家に入って行った。
長火鉢の向うに坐っていた主婦はものものしい顔にわざとらしい微笑《えみ》を浮べて、
「一体どうしたんです?」と呆《あき》れた風の顔をして私の顔を見上げた。
座には主婦のほかに女中のお清、お宮と同じ仲間のお菊、お芳、おしげなどが方々に坐っていて、入っていった私の顔をじろじろと黙って見守っている。
「なに、どうもしやあしないさ。私もうお宮さんのところに来ないから、私からよこしている手紙をもらって行こうと思って」
「つまらない。どうしてそんなことをするんです?……若い人たちのすることは私にはわからない」
「そんなことはどうでもいいんだ。私もこのとおり今まで貰《もら》っていた手紙を持って来た。これを戻すんです」
そこへお宮は二階から金唐紙《きんからかみ》の小さい函《はこ》を持って降りて来た。その中には手紙が一ぱい入っている。
そして茶の間の真中にこちらに尻を向けて坐りながら、
「さあ、こんなものがそんなに欲しけりゃあいくらでも返してやる」と、山のような手紙の中から私の手紙を選《え》り分けて後向きに叩《たた》きつけた。
「さあ、これもそうだ! ありったけ返してやるから持って行け」
私は長火鉢の前に坐って、それを横眼に見ながら笑っていた。
お宮は七、八本の手紙をそこに投げ出しておいて、
「あんまり人に惚《ほ》れ過ぎるからそんな態《ざま》を見るんだ」といいつつ二階に駆け上って、函を置いて降りて来ると、
「こんなところに用はない。柳沢さんのところに早くゆこう」と、棄《す》て科《ぜりふ》をいって裏口から出ていった。
私は、黙って笑っていた。
「一体どうしたんです?」主婦は笑いながらまた同じことをいった。
私は腹の中でこの畜生め、何もかも知っていやあがるくせに白ばくれていやあがる。と思いながら、
「いや何でもない。この手紙さえ戻してもらえば私には何にも文句はないんです」わざと静かにいって、お宮の投げ出して行った手紙を取り上げて懐中《ふところ》に収めた。
そこへお宮はまた戻って来て、座敷に突っ立ちながら、
「柳沢さんが、ちょっと雪岡さんに用があるから来て下さいって。……でも卑怯者《ひきょうもの》だから、よう来ないだろうって」
それを聴くと私はグッと癪《しゃく》に障《さわ》った。そして長火鉢に挿《さ》してあった鉄火箸《てつひばし》をぎゅうと握りしめて座り直りながら大きな声で、
「なんだ? 卑怯者だ?……それは柳沢がいったことか、お前がいったことか。お前なんぞのような高等|淫売《いんばい》を対手に喧嘩《けんか》をしたかあないんだ。しかし卑怯者というのを柳沢がいったなら、卑怯者か卑怯者でないか、柳沢と喧嘩をして見せよう」
するとお宮は私が本気になったのを見て折れたように笑いながら、
「卑怯者とは私がいったの。柳沢さんはそんなことをしやあしない」
と、にわかに声を和らげた。
私も淫売《じごく》のことで柳沢と喧嘩をするでもあるまいと、胸を撫《な》でながら家外《そと》に出た。
底本:「日本の文学 8 田山花袋・岩野泡鳴・近松秋江」中央公論社
1970(昭和45)年5月5日初版発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:久保あきら
校正:松永正敏
2001年1月30日公開
青空文庫作成ファイル:
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