うつり香
近松秋江

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)溢《こぼ》れて、

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)この間|鳥安《とりやす》に

[#]:入力者注 外字の説明や、傍点の位置の指定など
(例)※[#「木+靈」、第3水準1−86−29、344−下−16]
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 そうして、それとともにやる瀬のない、悔しい、無念の涙がはらはらと溢《こぼ》れて、夕暮の寒い風に乾《かわ》いて総毛立った私の痩《や》せた頬《ほお》に熱く流れた。
 涙に滲《にじ》んだ眼をあげて何の気なく西の空を眺《なが》めると、冬の日は早く牛込《うしごめ》の高台の彼方《かなた》に落ちて、淡蒼《うすあお》く晴れ渡った寒空には、姿を没した夕陽《ゆうひ》の名残《なご》りが大きな、車の輻《や》のような茜色《あかねいろ》の後光を大空いっぱいに美しく反射している。そういう日の暮れてゆく景色を見ると、私はまたさらに寂しい心地《ここち》に滅入《めい》りながら、それでもやっぱり今柳沢に毒々しく侮辱された憤怒の怨恨《うらみ》が、嬲《なぶ》り殺しに斬《き》り苛《さいな》まされた深手の傷のようにむずむず五体を疼《うず》かした。
 音羽《おとわ》の九丁目から山吹町《やまぶきちょう》の街路《とおり》を歩いて来ると、夕暮《くれ》を急ぐ多勢の人の足音、車の響きがかっとなった頭を、その上にも逆《のぼ》せ上らすように轟々《どろどろ》とどよみをあげている。私はその中を独《ひと》り狂気のようになって歩いていた。そして山吹町の中ほどにある、とある薪屋《まきや》のところまで戻《もど》って来ると、何というわけもなくはじめて傍《そば》にある物象《ものかたち》が眼につくようになって来た。そしてその陰気な灰色の薪を積み上げてあるのをじっと見据《みす》えながら、
「これからすぐお宮のところに行こう」私は口の中で独語《ひとりごと》をいった。
 色の白い、濃いけれど柔かい地蔵眉《じぞうまゆ》のお宮をば大事な秘密《ないしょ》の楽しみにして思っていたものを、根性の悪い柳沢の嫉妬心《しっとしん》から、霊魂《たましい》の安息する棲家《すみか》を引っ掻《か》きまわされて、汚されたと思えば、がっかりしてしまって、身体《からだ》が萎《な》えたようになって、うわの空に、
「もうやめだ。もうお宮はやめだ」
 柳沢が、あのお宮……を買ったと思えば、全く興覚《きょうざ》めてしまって、神経を悩む病人のように、そんなことをぶつぶつ口の先に出しながら拳固《にぎりこぶし》を振り上げて柳沢を打《ぶ》つつもりか、どうするつもりか、自分にも明瞭《はっきり》とは分らない、ただ憎いと思う者を打《ぶ》ん殴《なぐ》る気で、頭の横の空《くう》を打ち払い打ち払い歩いて来たのだが、
「これッきりお宮を止《や》めてしまう。柳沢が買ったので、すっかり面白くなくなった」
 と、残念でたまらなく言いつづけてここまでの道を夢中のようになって歩いて来たが、それでもまだどうしても止められない愛着の情が、むらむらと湧《わ》き起って来た。そうしてこういうことが考えられた。
 強盗が入って妻が汚された時に、夫は、その妻に対してその後愛情に変化《かわり》があるだろうか。それを思うと、それが現在あることというのでなく、ただ私が自身で想像に描いて判断しているだけなのだが、ちょうど今自分の身にそういう忌わしい災難が降りかかって来ているかと思われるほど、その夫の胸中が痛ましかった。
 そうしたら夫は、どうするであろう。妻は可愛《かわい》くってかわいくってたまらないのである。しかるにその可愛い妻の肉体《からだ》はみすみす浅ましくも強盗のために汚されてしまった。妻は愛したくって、あいしたくってたまらないのであるが、それを愛しようにも、その肉体は汚されてしまった。その場合の夫の心ほど気の毒なものはない。その時はただじっと観念の眼を瞑《つぶ》って諦《あきら》めるよりほかはないだろうか。私はそんなことまで考えて、お宮も強盗のために汚されてしまったのだ。まして秘密に操を売っているお宮は、明らさまに柳沢が買ったといえばひどく気に障《さわ》るようなものの、柳沢の他に自分が見知らぬ人間に幾たび接しているか分らない。
 そうも思い反《か》えすと、その柳沢に汚されたお宮の肉体に対して前より一層切ない愛着が増して来た。
「そうだ! これから今晩すぐ行ってお宮を見よう」
 そう決心すると、柳沢が今晩もまた行ってお宮を呼びはしないかと思われて、気が急《せ》けて少しも猶予してはいられない。そして柳沢が買ったのでもお宮に対する私の愛情には変化《かわり》はないと思い極《きわ》めてしまうと、もうこれから早く一旦《いったん》自家《うち》に帰って、出直して蠣殻町《かきがらちょう》にゆくことにのみ心が澄んで来た。
 喜久井町《きくいちょう》にかえると、老母《ばあ》さんは、膳立《ぜんだ》てをして六畳の机の前に運んで来た。私はそれを食べながら、銭《かね》の工面をして、出かけようとすると、
「またどこかへおいでなさるんですか」老母さんは、門の木戸を明けている私の背後《うしろ》から呼びかけた。
「ええ、ちょっと」と、いったまま、私は急いで歩き出した。
 そして先だってお宮の連れ込みで行った、清月《せいげつ》という小さい待合に行ってお宮を掛けると、すぐやって来た。
 一と口|挨拶《あいさつ》をした後は黙って座《すわ》っているその顔容《かおかたち》から姿態《すがた》をややしばらくじいっと瞻《みまも》っていたが柳沢がどうもせぬ前とどこにも変ったところは見えない。肌理《きめ》の細かい真白い顔に薄く化粧をして、頸窪《うなくぼ》のところのまるで見えるように頭髪《かみ》を掻きあげて廂《ひさし》を大きく取った未通女《おぼっこ》い束髪に結ったのがあどけなさそうなお宮の顔によく映っている。そしてその女の癖で鮮《あざや》かな色した唇《くち》を少し歪《ゆが》めたようにして眩《まぶ》しそうに眸《ひとみ》をあげて微笑《え》みかけながら黙っていた。
「どうしていた?」
 私は、やっぱりじろじろとその顔を見守った。傍《はた》で、その顔を見ている者があったら薄気味わるく思ったかも知れぬ。
「いいい」お宮は何ともいえない柔かな可愛い声を出した。
 これが、あの柳沢にどうかされたのだ。と思えば他の男のことは不思議になんとも感じないのに、ただそればかりが愛情の妨げになって、名状しがたい、浅ましい汚辱を感じて堪えられない。
「お前ねえ、私の友達のところにも出たろう。――しかしそれは構わないんだけれど……」
 私はじっと平気を装ってからいって見た。
「いいえ。そんな人知らない」頭振《かぶ》りをふった。
「ああ、そりゃお前は知らないかも知れぬ。お前は知らないだろう。けれども出るのは出たんだ。僕がその友達から聞いたんだから」
「いや、知らない。あなたの友達なんか、ちっとも知らない」
「いや、知らないわけはないんだ。お前は知らないんだけど。……四、五日前に、背の低い色の浅黒い、ちょっときりッとした顔の三十ばかりの人間が来たろう」
 そういうと、お宮はしばらく思い起すような顔をしていたが、
「ああ、来た。久留米絣《くるめがすり》かなんかの羽織と着物と同じなのを着た。さっぱりした人よ。あの人よ、この間|鳥安《とりやす》に連れて行ってくれた人」
 私はそれを聴《き》くと、またかっと逆上《のぼ》せて耳が塞《ふさ》がったような心地がした。
「そうだろう。あれが私の友達なの」
 私はその言葉で強《し》いて燃え立つ胸を静めようとするように温順《おとな》しくいった。
「あははは」お宮は仕方なく心持ち両頬を紅《あか》く光らして照れたように笑った。が、その、ちょっとした笑い方が何ともいえない莫連者《ばくれんもの》らしい悪性《あくしょう》な感じがした。
 それっきり私はしばらく黙ってまた独りで深く考え沈んだ。
 つい先だって来た時にお宮と一処《いっしょ》に薬師の宮松亭《みやまつてい》に清月の婆さんをつれて女義太夫《おんなぎだゆう》を聴きにいって遅《おそ》く帰った時、しるこか何か食べようかといったのを、二人とも何にも欲しくない、
「あなた欲しけりゃ、家へ帰って、叔母《おば》さんに洋食を取ってもらってお食べなさい。おいしいのがあってよ」と、いって、清月の小座敷でお宮とそれを食べている時、
「鳥安の焼いた鳥はうまいわねえ」と、いった。
「鳥安知っているの?」
「ええ、この間初めてお客に連れていってもらった。そりゃうまかったわ」
 こんなことをいっていたが、じゃ、その客は柳沢であったかと、私は思った。こういえば、お前にもすぐわかるだろうが、私といったら始終自分の小使銭にも不自由をしているくらいだが、柳沢は十円札を束にして懐中《ふところ》に入れて歩いているという話のあるほどだ。私が銭《かね》を勘定しいしいお宮と遊んでいるのに、柳沢は銭に飽かして遠くに連れ出すなり、外に物を食べに行くなりしようと思えば、したい三昧《ざんまい》のことが出来る。
 それで、私は、先だって鳥安につれてった客が柳沢であったということが分ると、もうお宮を取ってゆかれそうな気がして、また堪えられなくなって来た。
「そりゃいつごろのこと?」
「うむ、ついこの間さ」
 ついこの間といえば、いつのことだろう。先だってからお宮は、深い因縁の纏綿《つきまと》った男が、またひょっこり、自分がまたこの土地に出ていることを嗅《か》ぎつけて来たといって、今にもどこかへ姿を隠すようにいっていたのが、一週間ばかりして、また当分どこへもゆかないといって、それで、先《せん》に来た時に一緒に義太夫を聴きにいったりしたのだ。あの時もう鳥安に行ったことを言っていたから、じゃ私が一週間ばかり来なかった、その間に柳沢は来て、私がまだ女をつれて外になど少しも出ない時分に鳥安なんかへ行ったのだ。女にかけては、世間では私などを道楽者のようにいっているが、よっぽど柳沢の方が自分より上手《うわて》だ。と思うと、私はなおのことお宮のことが心もとなくなって来た。そしてつまらぬことをお宮に根掘り葉掘り訊《き》きたいのを、じっと抑《おさ》えて耐《こら》えながらもやっぱり耐えられなくなって、さあらぬようにして訊《たず》ねた。
「あの人、好い男だろう」
「本当に好い男よ。私、あんな人大好き。着物なんか絹の物なんか着ないで、着物も羽織も久留米絣かなんかの対のを着て、さっぱりしているわ」
「何か面白い話しがあったか」
「うむ、あんまり饒舌《しゃべ》らない人よ。そうしてじろじろ人の顔を見ながら時々口を利《き》いて、ちっとも無駄《むだ》をいわない人。私あんな人好き」
 お宮には本当に柳沢が気に入っているのらしい。
「君が買った女だと思ったから、じっと顔を見ていてやったら非常に興味があった」
 こんなことを、柳沢は、さっき饗庭《あいば》もいる前で話していた。
 こちらは、柳沢がそんな意地の悪いことをするとは知らないから、胸に奸計《たくらみ》を抱《いだ》いていてお宮を傍に置いていたことはない。柳沢の方じゃそうじゃない。これが雪岡《ゆきおか》の呼んでいる売女《おんな》であると初めっから知っていて、口を利くにもその腹で口を利いている。鳥安なんぞへつれ出すにも、そういう胸に一物あってしていることだ。
 こういうと、お前は、つまらない、蠣殻町の女|風情《ふぜい》を柳沢に取られたといって、そんな他人聞《ひとぎ》きの悪いことをいうのはお止《よ》しなさい。あなたの器量を下げるばかりじゃありませんか。と、いうであろうが、それは私も知っているけれど、まあ、そんな具合で柳沢は最初お宮を呼んだのだ。そういえば、お前にも柳沢のすることが大抵判断がつくだろうと思って。
 そんな厭《いや》な思いをしながらも、やっぱり傍で見ていれば見ていてお宮の美目形《みめかたち》が好くって、その柳沢の買った女をまた買った。
 そうして疲れて戻《もど》って来ると、神経が一層悩まされてお宮のことが気にな
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