って気になって仕方がない。私がいっている間だけは安心しているが、見ないでいると、その間は柳沢が行って、ああもしているであろう、こうもしているであろう。と思い疲れていた。
 それから柳沢とは、なるたけ顔を合わさぬようにしようと思ってしばらく遠ざかっていたが、またあんまり柳沢に会わないでいると、今日もお宮のところに行っているであろう。いっているに違いない。きっと行っている。と思いめぐらすと、どうしても行っているように思われて、柳沢の様子を見なければ気が済まないで久しぶりに行って見た。
 例の片眼の婆さんに、
「旦那《だんな》はいるかね?」と、訊くと、
「ええ、おいでになります」
 何だか気に入らぬことでもあると思われて仏頂面《ぶっちょうづら》をしていう。
 柳沢が家にいるというので、私はいくらか安心しながら、婆さんがお上んなさいというのを、すぐには上らず、婆さんに案内をさせて、高い階段《はしごだん》を上ってゆくと、柳沢はあの小《ち》さい体格《からだ》に新調の荒い銘仙《めいせん》の茶と黒との伝法《でんぼう》な厚褞袍《あつどてら》を着て、机の前にどっしりと趺座《あぐら》をかいている。書きさえすればあちらでもこちらでも激賞されて、売り出している真最中なので、もう正月の雑誌に出す物など他人《ひと》よりは十日も早く手まわしよくかたづけてしまって、懐中《ふところ》にはまた札の束がふえたと思われて、いなせに刈ったばかりの角がりの頬《ほお》のあたりに肉つきが眼につくほど好くなって、浅黒い顔が艶々《つやつや》と光っている。
 私は、何よりもその活《い》き活《い》きとした景気の好い態度《ようす》に蹴落《けおと》されるような心持ちになりながら、おずおずしながら、火鉢《ひばち》の脇《わき》に座って、
「男らしい人よ。私あんな人大好き」と、いった宮の言葉を想《おも》い浮べて、それをまた腹の中で反復《くりかえ》しながら、柳沢の顔と見比べていた。
 柳沢は最初《はじめ》から、私が階段《はしごだん》を上って来たのを、じろじろと用心したような眼つきで瞻《みまも》ったきり口一つ利かないでやっぱり黙りつづけていた。私も黙り競《くら》をするような気になって、いつまでも黙っていた。
「どうだ。このごろは蠣殻町にゆくかね?」打って変ったような優しい顔をしてさばけた口を利いた。
「うむ。ゆかない。もう止めだ。つまらないから。君はどうだね?」
「僕もあんまり行かないが、……その後お宮を見ないかね?」
 柳沢は、日ごろに似ぬどこまでも軽い口の利きようをする。
 私には、何だか両方が互いの腹を探っているような感じがして来た。そうして柳沢との仲でそんな思いをするのが厭でいやでたまらないのだけれど、今度のことは最初から柳沢が私たち二人の中へ横から割り込んで来たのだから仕方がない。
「いや、見やしないさ。あれっきり行かないから……」
 といったが、お宮が、私が来たということを、もし柳沢に話していたら、すぐ尻《しり》が割れてしまう。そんな嘘《うそ》を言って隠し立てをしているこちらの腹の中を見透かされると、柳沢の平生の性質から一層|嵩《かさ》にかかって逆に出られると思ったから、
「……おお、あれから一度ちょっと行ったかナ」
 と、さあらぬようにいった。そうして腹の中では、どこまでも、どこまでも後を追跡していられるようで気持ちが悪かった。
「よく売れると思われて、いつ行って見てもいたことがない」柳沢はやや語声を強めていった。
 じゃあ柳沢はあれからたびたびいって、お宮を掛けているのだナ。と、私は秘《ひそ》かに思っていた。
「君はこのごろまた大変に肥《ふと》って、英気|颯爽《さっそう》としているナ」
 柳沢の顔を見守りながら、私は話頭を転ずるようにいった。
「うむ。僕はこのごろ食べる物が何を食ってもうまい」
 愉快そうにいって、柳沢は両手で頬のあたりを撫《な》でた。
「君はこのごろ何だか影が薄くなったような気がする」
 と、冷やかに笑い笑いいって、また私の顔をじろじろ凝視《みつ》めながら、
「そうして、だんだんいけなくなって……」
 柳沢は、惨《みじ》めな者を見るのも、聞くのも、さもさも厭だというように、顔を顰《しか》めていった。
「ああ、影が薄くなったろう」私は憮然《ぶぜん》として痩《や》せた両頬を撫でて見た。
 そうしてこう思った。自分は、何も柳沢に同情をしてもらいたくはないが、しかし私がどうして今こんなになっているか、その原因については、とても柳沢は理解《わか》る人間ではない。あるいはわかるにしてもそのことが私ほど馬鹿馬鹿しく骨身に喰《く》い入る人間ではないと思ったし、お前に置き棄《す》て同然の目に逢《あ》わされたがためにこうなっているのだともいえないし、またそんな気持ちは話したからとて、そういう経験のない者にはわかるものでもないから、私はただそういったまままた黙り込んでしまった。
「お宮が、雪岡さんを見ると気の毒な気がする。と、いっていた」
 柳沢は、またそういって笑った。
「…………」私はしょげたように黙って笑っていた。
「……今日はお宮いるか知らん。……これからいって見ようか……」
 柳沢は私を戯弄《からか》うのか、それとも口では何でもなくいっていても、その実自分で大いにお宮に気があるのか、あるいはまた影の薄い私が思うようにお宮の顔を見ることが出来ぬのを惨めに思って、お勝手口の塵埃箱《ごみばこ》に魚の骨をうっちゃりに出たついで、そこに犬のいるのを見て、そっちへ骨を投げてやるように、連れていってお宮に逢わしてやろうというお情けかと、私はちょっと考えたが、それはどちらにしたって構わない、とにかく柳沢とお宮と一座したら、両方にどんな様子が見られるか、柳沢にはお宮が好いのには違いない。そう思案すると、
「ああ、行ってもいい」
 これから二人はややしばらく気の置けない雑談に時を過しながら点燈《ひともし》ごろから蠣殻町に出かけていった。
 柳沢は歳暮《くれ》にしこたま入った銭《かね》の中から、先だって水道町の丸屋を呼んで新調さした越後結城《えちごゆうき》か何かのそれも羽織と着物と対の、黒地に茶の千筋の厭味っ気のない、りゅうとした着物を着て、大黒さまの頭巾《ずきん》のような三円五十銭もする鳥打帽を冠《かぶ》っている。私はあの銘仙の焦茶色になった野暮の絣を着て出たままだ。
 小石川は水道町の場末から九段坂下、須田町《すだちょう》を通って両国橋の方へつづく電車通りにかけて年の暮れに押し迫った人の往来《ゆきき》忙しく、売出しの広告の楽隊が人の出盛る辻々《つじつじ》や勧工場の二階などで騒々しい音を立てていた。私はそんな人の心をもどかしがらすような街《まち》のどよみに耳を塞がれながら、がっかりしたような気持ちになって、柳沢が電車の回数券に二人分|鋏《はさみ》を入れさせているのを見て、何もかも人まかせにして窓枠《まどわく》に頭を凭《もた》していた。
「今日いるか知らん?」
 電車を降りると柳沢は先に立って歩きながら小頸《こくび》を傾けて、
「どこへゆこう?」
「さあ、どこでもいいが、その、君の先だって行ったところがよかないか」
 私は、これから後々自分が忍んでゆくところにしようと思っている清月に柳沢と一緒にゆくのは厭であった。
「じゃやっぱり彼家《あすこ》にしよう。……僕もあんまり行かない待合《うち》だがお宮を初めて呼んだ待合だから」
 そういってお宮のいる置屋《うち》からつい近所の待合《まちあい》に入った。
「……宮ちゃんすぐまいります」女中は報《し》らせて来た。
「いたナ!」私は微笑しながらいった。
「うむ」柳沢は、わざと苦い顔をした。
「今日はどんな顔をしているか。この間、昼、日の照っているところへ連れ出したら顔の蒼白《あおじろ》いところへ白粉《おしろい》の斑《まだら》に剥《は》げているのが眼について汚《きたな》くってたまらなかった」
 そういって柳沢は顔を顰めて、
「どう見ても高等|淫売《いんばい》としか見えない」
「芸者ともどこか違うしねえ」
「そりゃ芸者と違うさ。この間鳥安に連れていった時に鳥安の女中が黙って笑っていたが、これは淫売をつれて来たなと思ったのだろう。少し眼のこえた者には誰れが見てもすぐそれと分るもの」
 柳沢はしきりにお宮のことを気にして話をする。柳沢がそんなに女というものに興味を持って話をするのは、まだ一緒に学校にいっている時から十年の余知っている仲だが、ついぞこれまでに聞かぬことである。
「これは、よっぽど執心なのだナ」と、私は、ますます柳沢の心が飲み込めて来るにつれて、どうしてもこれは吾々《われわれ》の間に厭な心持ちのすることが持ち上らずにはいない。困ったことだと、ひそかに腹の中で太息《ためいき》を吐《つ》いていた。
「それでもこの間|歌舞伎座《かぶきざ》の立見につれていってやったら、ちょうど重《しげ》の井《い》の子別れのところだったが、眼を赤くして涙を流して黙って泣いていた。あれで人情を感じるには感じるんだろう」
 柳沢は、そのお宮の涙をしおらしそうにいった。
「歌舞伎座にもつれて行ったの?」
「うむ」
「いつ?」
「やっぱりこの間鳥安につれて行った時に」柳沢は済まない顔をして、そういって、ちょっとそこをまぎらすように「立見から座外《そと》に出ると、こう好い月の晩で、何ともいえないセンチメンタルな夜だった。僕は黙っているし、お宮も黙ってとぼとぼと蹤《つ》いて来ていたが、ふと月を見上げて『いい月だわねえ』と、いいながら真白い顔をこちらに振り向けた時には、まだ眼に涙を滲ませていて、そりゃ綺麗《きれい》なことは綺麗だったよ」
 さすがに柳沢も思い入ったようにいった。
 私は、それを聴いていて胸が塞がるような気がした。私がわずかばかりの銭《かね》の工面をして、お宮にただ逢《あ》うのでさえ精一ぱいでいるのに柳沢はもうお宮とそんな小説の中の人間のような楽しい筋を運んでいるかと思うと、世の中のものが何もかも私を虐《しいた》げているような悲痛な怨恨《うらみ》が胸の底に波立つようにこみあげて来た。そうしてよそ目には気抜けのしたもののように呆然《ぼんやり》として自分一人のことに思い耽《ふけ》っていた。すると自分が耐力《たあい》もなく可哀《かわい》そうになって来て、今にも泣き溢《こぼ》れそうになるのをじっと呑《の》み込むように抑えていた。
 ややしばらく経《た》ってから取着手《とって》もない時分になって、
「歌舞伎座にもつれて行ったのか!」と、曖昧《あいまい》な勢《せい》のない声を出した。
「その帰途《かえり》に鳥安にいったのだ」
 そして私は腹の中で、先日お宮が、
「書生らしい、厭味のない人よ。鳥安を出てから浅草橋のところまで一緒に歩いて行ったの。『僕はここから帰る。電車賃だ』と、いって十銭銀貨をすうっと私の掌《て》に載せて、自分はそれきり電車に飛び乗ってしまって」
 こういって思い味わうようにしていたのを、自分でもまた想いだして、下らなく繰り返していた。
 そこへそうっと襖《ふすま》を明けてお宮が入って来た。後からも一人若い女がつづいて入った。
「あらッ!」とお宮は、入って来るからちょうど真正面《まとも》にそっち向きに趺座《あぐら》をかいていた柳沢の顔を見て燥《はしゃ》いだように笑いかかった。
 いつもよく例の小豆《あずき》色の矢絣《やがすり》のお召の着物に、濃い藍鼠《あいねずみ》に薄く茶のしっぽうつなぎを織り出したお召の羽織を着てやって来たのだが、今日は藍色の地に細く白い雨絣の銘仙の羽織に、やっぱり銘仙か何かの荒い紫紺がかった綿入れを着ているのが、良い家の小間使か、ちょっとした家の生娘のようで格別あどけなく美しく見えた。そうして私は、柳沢がいつか小間使というものが好きだ。といって、かつて大倉喜八郎の家へ新聞記者で招待せられた時、そこで一人の美しい小間使が眼にとまって、
「僕はあんな女が好きだ」と話していたことを思い出していた。
 白い顔に薄く白粉をして、両頬に少し縦に長い靨
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