笑《えくぼ》を刻みながら、眩しいような長い睫毛《まつげ》をして
「どうしていたの? あなた。しばらくじゃないの」
 やっぱり柳沢の方に向ってそういいながら餉台《ちゃぶだい》を挟《はさ》んで柳沢と向い合って座った。そしてその横手に黙って坐っている私の方をチラリと振り向きながら、
「いらっしゃい!」と、一口低い調子でいった。
「よく売れると思われていつ来たっていないね」柳沢はじろじろお宮を瞻《みまも》りながらいった。
「あら、あれから来たの。だって来たと言わないんだもの」
「僕は来たって、来たということを誰にもいわないもの。名なんかいやあしないもの」
 そういう名をこんな土地で明かして、少しでも女に好かれようとするようなことは自分はしないのだといわぬばかりにいった。
「あなたの名は何という名?」
「俺《おれ》には名なんかないのだ」
 今にも対手《あいて》を噛《か》み付くような恐ろしい顔をしていながら柳沢はしきりに軽口を利いて女どもの対手になっていた。
「じゃ、名なし権兵衛《ごんべえ》?」も一人の十六、七の瓢箪《ひょうたん》のような形の顔をした口先のませた女がいった。
「ああ、僕は名なしの権兵衛」
「好い名だわねえ」
「うむ、好い名だろう」
 柳沢は、まるで人が違ったように気軽に饒舌《しゃべ》っていた。
「今日お前はいつものよそゆきと違って大変|直《ちょく》な生《うぶ》な身装《なり》をしているねえ」
 私は、お宮を見上げ見下していった。
「うむ。僕は、あんなお召や何かあんな物を着たのよりも、こんな風をした方が好きだ。……君は好い着物を持ってるねえ」
 柳沢がよくいいそうなことをいった。
「そう。これがそんなにあなたに気に入って?」お宮は乳のまわりを見廻《みまわ》しながらそういって、柳沢の方を見守りつつ、
「あなたも今日は大変好い着物を着てるねえ。……今日はあの絣を着て来なかったの。あれが私大好き。活溌《かっぱつ》で。……だけどその着物も好い着物だわ。こんど拵《こしら》えたの?」
「うむ。いいだろう」柳沢も自分の胸のあたりを見まわして、気持ちよさそうに言った。
「私もこんど好い春着を拵えたわ。……もう出来て来たわねえ」
 お宮はも一人の小女をちょっと誘うように見ていった。
「どんな着物だい?」私は黙っていた口を開いた。
「どんなって、ちょっと言えないねえ。羽織は縮緬《ちりめん》の紋付、着物は上下|揃《そろ》った、やっぱりお召さ」
 そこへ誂《あつら》えた寿司《すし》が来た。
「君たちも食べないか」私は女どもにすすめながら摘《つま》んだ。柳沢はもう黙って口に押し込んでいた。
「食べようねえ」お宮はも一人の女に合図して食べた。
 柳沢は口をもぐもぐさせながら指先の汚《よご》れたのを何で拭《ふ》こうかと迷っていた。
「ああ拭くもの?……これでお拭きなさい」
 お宮は女持ちの小《ち》さい、唐草《からくさ》を刺繍《ししゅう》した半巾《ハンケチ》を投げやった。
 柳沢はそれで掌先を拭いて、それから茶を飲んだ後の口を拭いた。
「君、あっちい二人で行ったらいいじゃないか」
 柳沢は気を利かしてそっと私に目配せした。
「うむ。……まあ好いさ。……君はどうする?」私は自分でも明らかに意味のわからないことをいって訊いた。
「僕は、お前とここで話しをしているねえ」柳沢はふざけたようにも一人の女の顔を窺《のぞ》くように見ていった。
 私は、自分の慎むべき秘密を人にあけすけに見ていられるような侮辱を感じたけれどこんなところにすでに来ていてそんな外見《みえ》をしなくってもいいと思ったから、遠慮をしないでお宮をつれて別の部屋に入っていった。
 間もなく私たちは其待合《そこ》を出て戻った。
「ふん! あんな変な女を連れて来て」
 柳沢は人形町の電車通りまで出て来ると、吐き出すようにいった。
「君は、どうもしなかったかね?」
「どうもするもんか。あんな小便臭い子供を。お宮はあんな奴《やつ》を、自分の妹分だといって、あれを他の客によく勧めるんだ。だれがあんな奴を買うものがあるもんか!」
 中二日置いて、この間からいっていた、外套《コート》を買ってやる約束があったのでまたお宮に逢いに行った。清月にいって掛けるとお宮はすぐやって来た。
「今日外套を一緒に買いにゆこう」
「今日」と、お宮は嬉《うれ》しさを包みきれぬように微笑《わら》い徴笑い「これから? 遅《おそ》かなくって?」行きとうもあるし、躊躇《ためら》うようにもいった。
「ゆこうよ。遅かない」
「そうねえ。何だか私、今日|怠儀《たいぎ》だ。……あなた一人行って買って来て下さい。私どこへもゆかない、ここに待っているから……その辺にいくらもある」と、無愛相にいう。
「いや、それはいけない、僕は一緒に物を買いにゆくのが楽しみなのだ」
 先だってから、
「私コ―トが欲しい。あなた表だけ買って下さい。裏は自分でするから」
 といっていた。私はお前と足掛け七年一緒にいたけれどコート一枚拵えてはやらなかった。それに三、四度逢ったばかりの蠣穀町の売女風情《ばいたふぜい》に探切立てをしていくら安物とはいいながら女の言うがままにコートを買ってやるなんて、どうしてそんな気になったろうかと、自分でも阿呆《あほう》のようでもあり、またおかしくもなって考えて見た。そうすると先き立つものは涙だ。
「ああ、おすまには済まなかった。七年の間ろくろく着物を一枚着せず、いつも襷掛《たすきがけ》けの水仕業《みずしわざ》ばかりさせていた」
 そう思うと、売女《おんな》にたった十五円ばかりのコートの表を一反買ってやるにしても、お前に対して済まないことをするようで気が咎《とが》めたけれど、また
「俺《わし》が、蔭《かげ》でこんなに独《ひと》りの心で、ああ彼女《あれ》には済まない。と思っているのをも知らないで、九月の末に姿を隠したきり私のところには足踏みもしないのだ。あんまりな奴だ。……あんまりひどいことをする奴だ。……ナニ構うものか、お宮にコートを買ってやる! 買ってやる! おすまが見ていなくってもいい、面当《つらあ》てにお宮に買ってやるんだ!」
 誰れもいない喜久井町の家で、机の前に我れながら悄然《しょんぼり》と趺座《あぐら》をかいて、そんな独言をいっていると自分の言葉に急《せ》きあげて来て悲しいやら哀れなやら悔しいやらに洪水《おおみず》の湧《わ》き出るように涙が滲《にじ》んで何も見えなくなってしまう。
 それで当然《あたりまえ》ならば正月着《はるぎ》の一つも拵えなければならぬ冬なかばに、またありもせぬ身の皮を剥いだり、惜しいのばかり取り残しておいた書籍《ほん》を売ったりしてやっといるだけの銭《ぜに》を工夫してお宮の気嫌《げん》をとりにやって来たのだ。
 それを、さぞ喜ぶかと思いのほか、ありがとうともいわないで、何か厭なところへでも行くように怠儀そうにいう。女というものはこんなにも我儘《わがまま》なものか、今に罰《ばち》が当るだろう。と腹の中で思ったがこの間は柳沢と一緒に外に出て、歌舞伎座や鳥安に行ったことがあるので、私もぜひどこかへ連れていきたくて仕方がなかった。それで「この不貞腐《ふてくさ》れの売女《ばいた》め!」と思ったが、素直にいそいそと立とうとしないのが業腹で、どうかして気嫌よく連れてゆこうと思って
「ねえ行こうよ。そして帰途《かえり》に何か食べよう」と、優しくいうと、
「そう、じゃ行こうかねえ。すぐそこらにいくらもあるよ」いけ粗雑《ぞんざい》な口でいう。
「ああ、お前はさっきからすぐそこらで買うつもりでいたの? それで私に一人で行って買って来てくれといったのか」
「そうさ! あんな物どこにだってあるよ」
「いや、そりゃいけない。どこかもっと好いところにゆこう」
「日本橋の方へ?」
「ああ」
「そう、じゃ私ちょっと自家《うち》へ帰って主婦《おかみ》さんにそういって来るから」
 と、いってお宮は帰っていった。間もなくやって来て、今度は前《さき》と打って変って、いつか一週間も逢わないでいて久しぶりにお宮のいる家の横の露地口で出会った時のようにげらげら顔を崩《くず》しながら
「自家の主婦さん、『雪岡さん深切な人だ。ゆっくりいっておいで』と、いっていたわ!」
 こんどは、そんなことを言やあがる。何というむらっ気の奴だろうと癪《しゃく》に障《さわ》ったけれど、一緒に連れ出したいのが腹一ぱいなので気嫌を直して行くというから、こちらも嬉しくって外に出た。
「主婦さあ、『日本橋の松屋においで、松屋が安くって好いから』と、いっていたわ。うちの主婦さあも彼店《あすこ》で買うの」
 お宮が気の浮いた時によく出す主婦さあというような調子で声を出しながらいそいそとして歩いた。
「安いといったって、何ほど違うものか」と思いながら「じゃそこへ行こう」私は、お宮の言うとおりになった。
 蠣殻町から汚い水の澱《おど》んだ堀割を新材木町の方へ渡ってゆくと、短い冬の日はもう高い棟《むね》の彼方《かなた》に姿を隠して、夕暮らしい寒い風が問屋物《とんやもの》を運搬する荷馬車の軋《きし》って行く跡から涸《かわ》ききった砂塵《すなほこり》を巻き揚げていった。
 柳沢の言い草じゃないが、こうして連れ出して見ると、もう暗い冬の日光《ひかげ》の照りやんだ暮れ方だからまだしもだとはいいながら今さらにお宮の姿が見る影もなくって、例《いつも》のお召の羽織はまあいいとして、その下には変な唐草模様のある友禅めりんすの袷衣《あわせ》か綿入れを着ているじゃないか。それが忙がしそうに多勢の往来している問屋町の前を通って行くのがひどく目に立って、私はせっかくの思いに連れ出していながら、独り足早にさっさっと先きに立って歩いた。
 そんな風をした女をつれて松屋へ入って行くのが冷汗をかくようであったが誰れも知った人間に遭《あ》いはしないだろうかと恐る恐る二階に上ってゆくと、よくしたもので二階のすぐ上り口の鼻先に知った人間が夫婦《ふたり》で買い物をしている。私はちょいとお宮の袖《そで》を引っ張ってすうと物蔭に隠れてしまった。間もなくそれらが降りていったので私は恥かしそうに売場の番頭の前に安物の下着のようなめりんす友禅を着たお宮をつれて行った。
 すると、お宮がちょうどお前と同じことだ。どうして女というものはああなんだろう。お前にいつか袷衣《あわせ》にするからといって紡績物の絣を買った時にどうだったろう、私が見立てて買って来てやったのを、柄が気に入らぬからといって、何といった?
「あなた、そんな押し付けるようなことをいうもんじゃないわ、何か買って来た時は――『お前にこんな物を買って来てやったが、どうだい、気に入るか』って、まず訊《き》くものよ」
 そんなことをいった。あの時お前は、先《せん》の亭主《ていしゅ》は、それは深切であった、深切であったと、よく口癖のようにいっていたから、
「それはお前の先の亭主はそんなことをいってお前を可愛《かわい》がったか知れないが、俺はそんなことをいうのは厭《いや》だ」
 と、いって笑ってやったら、その時お前は気嫌悪そうな顔をしながら笑った。でも、やっぱりその柄が気に入らないからといって、せっかく私とその呉服屋の息子とで見立ててこれが好いときめた物を、また他なのを子僧に持って来さして比べて見た。そしてやっぱり先のがお前にも気に入った。それから早速仕立てて着て見たら、「あなた、これはなかなか好い柄ですよ。姉のところに着て行ったら、『好いのが出来たねえ』って、引っ張って見ていました」
 そういったじゃないか。
 お宮がそのとおりだ。
 たかがセルのコートを一枚買うのに、いろいろ番頭の出して見せる品物《もの》を、
「ああこれが好い!」と、手に取り上げているかと思うと、後から変った柄のが出ると、
「ああこの方がいいわ!」そしてまたそっちに手を出す。
「じゃ、その方に定《き》めたらいいだろう」と急くと、
「やっぱりこっちの方が好いわ」と、指を一本口の中に入れて考えたようにしている。私は番頭の手前
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