来たので二人とも方向《ほうがく》のつかぬ街筋《まちすじ》に出てしまった。
二、三間先に走っていたお宮ははたと佇立《たちどま》って、
「どちらへ行くの?」けろけろとして訊《き》いた。
私は、やっとそれで取り着く島を見つけたような気になって、
「こっち行くんだよ」と、いい加減に先に立って歩いた。
「なぜそんなにぷりぷりするんだい」
「あなた私をうっちゃってゆくんだもの」
「お前、私と一緒に歩くのがさもさも怠儀そうだから」
やっと葭町《よしちょう》から人形町の見えるところまで来たことに気がつくと、お宮は、
「あなた、私は身体が悪いんですから、もうお帰んなさいッ」そんな棄て辞《ぜりふ》をいっておいて、ついと先に立って駆けていった。
私は、思いきって帰ってしまうかと思ったが、何で面白くもない加藤の家の二階にそのまま戻れるものか。またのめのめとお宮の後を追うて一と足|後《おく》れに置屋に舞い戻って来ると、
「一体どうしたんです? 今宮ちゃん、息をはずませて帰って来て、雪岡さんと喧嘩《けんか》をしたって、それっきり、何にもいわないで二階に上ってしまいましたよ。……若い人たちのすること私どもに分らない」主婦《おかみ》は、長火鉢の向うに私を坐らせて微笑《わら》い微笑いいった。
「あなた方あんまり仲が好すぎるんですよ」
「そんなこともないですがな」私も笑った。
「ほんとにどうしたんです。私、あんな浮気な人嫌い。といっていましたよ。あなたどうかしたのでしょう」
「はははは。そうか、じゃわかった。さっきねえ、此家《ここ》を出てから、私|戯談《じょうだん》に此家の菊ちゃんのことを、あの女《ひと》好きな人だって、ほめたの。それでわかった」
「何だ、くだらない。二人で痴話喧嘩をしたお尻《しり》を私のところへ持って来たって、私知らないよ。雪岡さん何か奢《おご》って下さいよ。……ああそうそうお礼をいうのを忘れていました。さっきはまた子供にまで好いものを。……じゃあなに一と足さきに清月にいっていらしって下さい。あとからすぐ宮ちゃんをやりますから」
「だって歯が痛いとか、頬が脹《は》れたとかいっているんでしょう」
「なに、昨日《きのう》一日休んでいたからもう快《い》いんですよ。わがままばかりいっているんですよ。……ほんとにあなたにお気の毒さまです。あんな女《ひと》だと思ってどうぞ末永く可愛《かわい》がってやって下さい」
腹の中ではお宮の気心をはかりかねて、真個《ほんと》に嫌われたのだろうかと、消え入るような心地《ここち》になっていたのが、主婦の物馴れた調子に蘇《よみがえ》ったような気になって、私は一と足さきに清月にいった。
お宮はじき後からやって来た。
「あなた、自家《うち》の子にいろんな物をやってくれたでしょう。主婦さんそういっていた。……あんなにしてもらうと、私顔が立っていいの」お宮は横になりながら宵のことは忘れたようにいった。
「しばらくだったねえ」
「わたいもしばらくだわ」
「お前さっきどうしてあんなに怒ったんだい」
「あなたが、あんまり菊ちゃんのことばかりいうからさ」
その晩はいつにない打ち解けた心持ちになって、私は早く帰った。
加藤の家へも梅干飴《うめぼしあめ》を持って帰ってやると、老人《じいさん》に老婆《ばあさん》は大悦《おおよろこ》びで、そこの家でも神棚《かみだな》に総燈明をあげて、大きな長火鉢を置いた座敷が綺麗《きれい》に取りかたづけられて、まわりが年の暮の晩らしゅう光るように照り映《は》えている。
私とお前と一緒にいた間は、今年の年の暮はと、正月らしい気持ちのしたことはついぞ一度もなかったのに、加藤の家の老人《としより》夫婦の物堅い気楽そうな年越しの支度《したく》を見て、私は自分の心までが稀《めず》らしく正月らしい晴れやかな気持ちになった。
そして翌日《あくるひ》の大晦日《おおみそか》には日の暮れるのをまちかねてまた清月に出かけた。お宮の来るのを待って一緒に人形町の通りをぞろぞろ見て歩いた。
「わたし扱帯《しご》が一つ欲《ほ》しいの。あなた買ってくれる?」お宮は眩《まぶ》しいばかりに飾った半襟屋《はんえりや》の店頭《みせさき》に立ちどまってそこに懸《か》けつらねた細くけを捻《ひね》りながらいった。
「うむ」と、私は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「じゃ、あの松ちゃんにもこの細くけを一つ買ってやってもよくって」
「うむ」
「何かうまい物を買っていって、食べようじゃないか」
「うむ」
十日ばかりというもの風ほこりも立たず雨も降らず小春といってもないほど暖《あった》かな天気のつづいた今年の年暮《くれ》は見るから景気だって、今宵かぎりに売れ残った松飾りや橙《だいだい》が見ているうちにどんどんなくなってゆく。
そうして軒から軒を見て歩いているうちに、さすがに長く雨を見なかった空から八時ごろになるとぱらぱらと大きな雨粒を落して来た。そして見る見るうちに本降りになって来た。不意を喰《くら》った人群《ひとごみ》は総崩《そうくず》れに浮き足だって散らかっていった。
「ああ好い雨だ。早くかえろう」
夜店の商人《あきんど》が雨を押し上げる思いで怨《うら》めしそうに天を見上げながら、
「もう二時間|遅《おそ》いと早いとで大きな違いだ」と、舌打ちするようにいってつぶやいているのを、私はしっとりとした好い気持ちに聞きなしながらお宮を連れて清月にもどって来た。
平常《いつも》と違って客はないし、階下《した》で老婢《ばあさん》が慈姑《くわい》を煮る香ばしい臭いをききながら、その夜くらい好い寝心地の夜はなかった。
年が改まってからも今までのとおり時々お宮を呼んで加藤の家に泊めた。それでいて私は、お宮を落籍《ひか》すなら受け出してすっかり自身のものとしてしまうことも出来なかった。
「お前、いつまでもこんな稼業《かぎょう》をしていたって仕方がないじゃないか。早く足を洗って堅気にならなけりゃいけないよ」
「ほんとに私もそう思うよ」お宮は太息《ためいき》を吐《つ》くようにしていった。
「僕が出してあげようか」
「出してもらったって仕方がない」
少し真面目《まじめ》な話しになろうとすると、後はそういってそらしてしまった。そういうわけで私もしばらくお宮に会わずにいた。
すると、忘れもせぬ二月の十一日の夜であった。日がな一日陰気に欝《ふさ》ぎ込んでばかりいた私は、その夜も、ついそこらをちょいと散歩して来るといって、水道町の通りをぐるりと一と廻りして帰って来た。私が入口に入る姿を見ると、すぐ上り口の間で炬燵《こたつ》にあたっていた加藤の老人夫婦は声をそろえて微笑《わら》いながら、
「あッもう一と足のところでした。惜しいことをした」
「どうしたのです? 誰れか来たのですか」
「あなたの好きな人が今見えました」老婦《おかみさん》は笑い笑いいう。
「好きな人ってだれです?」私は、そういいながら、腹の中ではッと度胸《とむね》を衝《つ》きながら、もしやお前でも夜の人目を忍んでたずねて来てくれたのではないかと思った。
そう思うと、お前の顔容《かおかたち》から、不断よく着ていたあの赤っぽい銘仙《めいせん》の格子縞《こうしじま》の羽織を着た姿がちらりと眼に浮んだ。
「じゃ、おすまでも来ましたか」
「いや、お宮さん。あなたがそこへおかえりになるちょっと前、まだ終点まで行っていられるか、いられないくらいです。お会いになるはずだがなあ。お会いにならなかったですか」
「いえ、会いません。……それで何とかいってゆきましたか」
今まで何度来ても、それはこちらで玉《ぎょく》をつけてやるから来るので、向うからついぞ訪《たず》ねて来たことなどなかったのに、めずらしい。どうしたのだろう。と、滅入《めい》っていた心がにわかに引き立って、これはいくらか、惚《ほ》れられているのだな、と。そう思うとそこらがたちまち明るくなって、ぞくぞく嬉《うれ》しくなった。
「そしてこれを家へあげますといって置いていらっしゃいました」
老婦はお宮の絹手巾《きぬハンケチ》で包んだ林檎《りんご》を包みのまま差し出した。手に取り上げて見るとお宮と一緒にいるような薫《かお》りの高い香水の匂《にお》いが立ち迷うている。
「ああ、そうですか。何か用があるんだな」
「ええ、何か御用がありそうでしたよ。お留守ですと申しましたら、ちょっとそこに立って考えていらっしゃいましたが、これをあげますといって、包みのまま置いておかえんなさいました」
「ああ、そうですか。でもよく向うから今日は訪ねて来たな」
そんな話をしながら私はしばらく老人《としより》夫婦の炬燵にあたっていた。
「温順《おとな》しい、美しい方ですねえ。今日はいつもよりも綺麗に見えた。あなたがお惚れになるのも無理はないと思いました」
「うむ、好い人です」老人《じいさん》までが今夜は老婦《おかみさん》に和してお宮の美しく温順しやかなことをほめた。
「ああそうですか。あれであんな商売をしているとは思われますまい」
「ほんとにそうですよ。ちっともそんな風は見えません」
「あの人を出して奥さんにしたらいいでしょう」今夜はどうしたのか、老人がしきりにさばけたことをいう。
「まさかねえ、蠣殻町の売女《おんな》を女房にも出来ますまいが、妾《めかけ》にする分にはかまわない。もっとも私は妾でも女房でも同じこったから……何か用があるんだなあ」
「また明日《あす》でもおいでになりますよ。何か用がありそうでしたから」
けれども明日になってもお宮は来なかった。ほんとに用があるなら手紙でもよこしそうなものだと思って待ちあぐんでいたが、手紙もよこさなかった。堪《こら》えかねてこちらから手紙を出して見たが、それに対する返辞もない。とうとう耐忍《がまん》しきれなくって、その次の次の日に清月まで出かけて行った。
「この間私の留守のまに君来てくれたそうだけれど残念だった。何か用でもあったの?」
面と向っても黙ったまま何とも口を利《き》かないので、私の方から口をきった。そして私は腹の中で、この女の勝手につけてはよく饒舌《しゃべ》りながら、気の向かぬ時は怒ったようにむっつりしているのを、柳沢によく似た女だなと思っていた。
「この間は用があったけれど、もう何にもない」
まるで義理で口を利くような物の言いぶりをする。
「けれど来た時はどんな用だったの。それを聞かないと何だか気になってしようがない」
私はやさしく訊いた。
「いったってしようがない」お宮はまた怒ったようにいった。
それで私もその上|強《し》いて訊こうとはしなかった。そして横になってから、
「私、朝鮮に行くかも知れないよ」と、考え深そうにしていった。
「また例の男が何とかいって来るの」私はこの女を遠くに手放すのが惜しいようで、それをきくとたちまち失望を感じながら「そんなに朝鮮なんかへゆかなくたって、東京でどうかなるだろう」
「だってしようがないもの。もう女郎にでも何にでも身を売って、その金をやってこんどこそ縁を切ってしまう」
そんな話しをしていても、さらばどうしたらばよかろうかとか、何とか私を頼《たよ》りに相談を持ちかけるという風でもないので、こちらもあっけなくって、勝手にしろと思って泊らずに早く帰った。
四、五日たってから、加藤の内に来てくれるように電話をかけたけれど、留守であったり何かしていつものようにその日に来なかった。それでこちらからわざわざ蠣殻町まで迎えにいった。
「宮ちゃん、用があるとか何とかいっていましたよ。今いません」女中のお清《きよ》が一人いて、そういった。
その時分は、私は清月にゆかずに、すぐお宮のいる家にいって、主婦やお清を対手《あいて》にしながら話し込むことがめずらしくなかった。
「雪岡さん、何にもありませんが御飯を食べませんか。宮ちゃんと一緒にお食べなさい」
私は大きな餉台《ちゃぶだい》にほかの売女《おんな》どもと一緒に並んで御飯《めし》を食べたりなどしていた。
お宮が外から帰って来たので、厭
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