で来ると、もう江戸川ゆきはなかった。ようよう電車賃が片道あったばかりだから俥《くるま》にも乗らず、幸い夏の夜で歩くのによかったから、須田町から喜久井町までてくてく歩いて戻った。
 思いきって一旦《いったん》出て去った家へ帰るのは、それは仲に入って口を利いた柳町に対しても好かあないと思ったけれど、一時過ぎてから門を潜《くぐ》って庭から廻り四畳半の老母《ばあ》さんに聞えぬようにお前の枕頭《まくらもと》と思う六畳の縁側の戸を叩くと、
「あなたですか!?[#「!?」は第3水準1−8−78、345−下−3]」
 と、お前が眼を覚《さ》まして内《なか》から忍ぶように低声《こごえ》で合図をしてくれた。
 私は、やれ嬉しやと、お前が起き出て明けてくれた雨戸からそうっとはいりこんだ。夏の夜更《よふ》けの、外は露気を含んで冷や冷やと好い肌触《はだざわ》りだけれど部屋の中は締め込んでいるのでむうっと寝臭い蚊帳《かや》の臭いに混ってお前臭いにおいが、夜道に歩き疲《くたび》れた私の肉体《からだ》を浸すようにそこらに籠《こ》もっていた。私は何とも言いがたいそのにおいの懐《なつ》かしさにそのまま蚊帳の裾《すそ》をはねて寝床に転《ころ》げ込むと、初めの内はやさしく私を忍ばせたお前が何と思ったか寝床に横たわりながら
「あなたあっちいってお休みなさい。別にあなたの蚊帳を吊《つ》ってあげますから……ここは私の寝るところです」
 と、神経の亢進《たかぶ》ったようにはねつけた。
「いんにゃ、ここでいい、もう怠儀だ」
「怠儀だって、それはあなたの勝手じゃありませんか。あなたはもうここを出て去《い》った人です。一旦切れてしまえば、あなたと私とはもう赤の他人ですから、どこか他へ宿を取るなり、友達のところに行くなり、よそへいって泊って下さい」
「…………」
「ねえ、そうして下さい。ここは私の家です、あなたの家じゃありません。こうしていて明日《あす》老母《おばあ》さんに何といいます。あなた私の家の者を馬鹿にしているんだからそんなことは何とも思わないでしょうが、私が翌朝《あす》お老母《ばあ》さんに対して言いようがないじゃありませんか。私がすき好んでまたあなたを引き入れでもしたように思われて……」
「…………」
「ねえ、そうして下さい。どっか他へいって泊って下さい。あなたは何をいっても私の言うことなど馬鹿にしている。そうなくてさえ柳町の姉を初め自家《うち》の者は皆な私が浮気であなたとこんなことをしているように思っているんですから。あなたは、そりゃ男だし、ちゃんとお銭《かね》をかけて一人で食べてゆかれるようにしてある体ですから、浮気をしたっていいでしょうが、私は少しもそんな考えであなたと今まで一緒にいたんじゃない」
 そういいながらだんだん眼が冴《さ》えて来たと思われて、寝床の上に起き直ってむやみと長煙管《ながぎせる》で灰吹きを叩いていた。
 蚊帳ごしに洩《も》れくる幽暗《うすぐら》い豆ランプの灯影《ほかげ》に映るその顔を、そっと知らぬ風をして細眼に眺めると、凄《すご》いほど蒼《あお》ざめた顔に色気もなく束《つか》ねた束髪の頭髪《あたま》がぼうぼうと這《は》いかかっていた。
 私は、いいたいだけ言わしておいて、借りて来た猫《ねこ》のように敷布団の外に身を縮めてそのまま睡《ねむ》りこけた。
 
 翌朝《あくるあさ》になると、それでも気嫌よさそうに
「お老母さんには、柳町に行っても、あなたのことは何にもいわないようにしておくれ。と、いっておきました」
 そういった。
「ああそうか」
 と、いいながら、私は、久しぶりで口に馴れたお前の手で漬《つ》けた茄子《なす》と生瓜《きゅうり》の新漬で朝涼《あさすず》の風に吹かれつつ以前のとおりに餉台《ちゃぶだい》に向い合って箸を取った。
「あなた、またああそうかって、ああそうかじゃいけませんよ。老母さんに口留めしている間に二、三日の内に下宿なり、間借りをするなり早く他へ行って下さい」
 そういわれて、私はせっかくうまく食べかけていた朝飯が溜飲《りゅういん》になってしまった。
 三日目に老母さんから聴いたと思われて、柳町から新吉が凄《すさま》じい権幕でやって来た。
 私は折から来客があったので、老母さんの四畳半の方に上っていった様子をチラリと認《み》たから、わざとその客を引き留めて雑談に時を過しながらヒステリーの女みたいに癇癪《かんしゃく》の強い新吉の気を抜いていた。
「あなた、新さんが、ちょっと雪岡さんに話しがあるといって、他室《あちら》でさっきから来て待っています」
 お前が、さも新吉の凄じい権幕に懼《おび》えたように、神経の硬《こわ》ばった相形《そうぎょう》に強《し》いて微笑《わらい》を見せながら、そういって私の部屋に入って来た。
「雪岡さん、君は一体どんな考えでいたんです? つい此間《こないだ》函根に行く前に奇麗に此女《これ》と手を切って行ったんじゃありませんか」
 私には、新吉のいう文句よりもその躍起となって一時血の循環《めぐり》の止ったかと思われるように真青になった相形が見ていて厭《いや》だった。
 私は、その毒々しい顔を見ながら、わざとずるく構えて新吉にばかり言いたいだけ文句を並べさして黙り込んでいた。
「お前さんはずるいよ、人にこんなに饒舌《しゃべ》らしておいて。さあ、どうしてくれるんだ? 雪岡さん、今ここを出ていって下さい」
「あなたがそんなに言わなくっても出てゆくさ。しかし出てゆくには出てゆくで、私の方でも下宿するなりどうするなり、いろいろ準備をしなければならぬから」
 私は対手《あいて》にするのが厭で鄭寧《ていねい》にいうと、
「準備をするのはもう何日も前から分っているじゃないか、そりゃお前さんの勝手だ。こっちはそんなことは知らない。早くこの老母《おふくろ》の家を出て行っておくんなさいッ……さあ出て行っておくんなさいッ」
 私がつい一と口くちを出すと、また図に乗って十口も文句を並べた。
「猫や犬じゃあるまいしそんなに早く出てゆかれるものか」
「お前さんのような道理《わけ》の分らない人間は猫や犬を見たようなものだ。何だ教育があるの何のといって、人の娘を玩弄《おもちゃ》にしておいて教育が聴いて呆《あき》れらあ。……へんッお前さんなんぞのような田舎者《いなかもの》に江戸ッ児が馬鹿にされてたまるものか」
 まるで人間を見たことのない田舎の犬が吠《ほ》えつくようにぎんぎんいった。
 私は微笑《うすわらい》しながら黙っていた。
「あなた、今日出て行って下さい。……義兄《あに》さんのいうのが本当です。あなたが一体函根からまた此家《ここ》へ舞い戻って来るというのが違っているんですもの」そういって新吉の方に向いて言葉を柔らげて「私が出します。ほんとに義兄さんには多忙《いそが》しいところを毎度毎度こんなつまらぬことで御心配ばかりかけて済みません」
「ええ、いや。しかしおすまさんもおすまさんじゃないか。雪岡さんがいくら戻って来たってお前さんが家へ入れるというのがよくない……」
「ええ、それはもう私が悪いんです。そのこともこの人によくそういったんです。お急がしいところをどうも済みません。きっとこの人も出てゆきますから、どうぞもう引き取って下さいまし。……また大きな仕事を何かお請けなすったって」お前はそういってほかへ話をそらそうとした。
「いえ、ええ」と、新吉は得意げな返辞を洩らしながらだんだん静かになって来た。
「……あなた、新さんがあんなにいうんですから、どうぞ新さんのために別れると思って此家《ここ》を出ていって下さい」
 新吉が帰っていってからお前は私の傍に戻って来てそういった。
「何だ。あの物のいい振りは。俺《わし》はあんな人間がお前の姉の亭主だと思うと厭だからいわなくとも早くどこか探して出てゆくよ」
「初めガラッと門をあけて入って来た時に、あんまり恐ろしい権幕だったから、私はどうしようかと思った。私を打《ぶ》ちでもするかと思った。私、あれが新さんが厭なの。そりゃ姉の亭主だから義兄《にい》さんにいさんと下手《したで》に出ていれば親切なことは親切な人なんですけれど」
「なんだ。教育がどうのこうのッて」
「自分一人偉い者のようにいって」お前もそういって冷笑《わら》った。
 そんな喧《やかま》しいことがあったけれど、私がどうしてもずるずるに居据って出てゆかなかったのでとうとうお前の方から姿を隠してしまったのだった。
 そしていつの間にかもうそんなところへ嫁《かたづ》いていたのだと聴いたから、私は、新吉はじめお前たちを身を八裂きにして煮て喰《く》ってもなお飽き足らぬくらい腹が立ってあんなに、お前をどこの街頭《まちつじ》でも構わない、見つけ次第打ち殺すと書いたのだ。
 加藤の二階で、寂しさやる瀬なさに寝つかれぬままその手紙を書きながら、どうあってもお前を殺すという覚悟をしていると、いくらか今朝からの怨恨《うらみ》が鎮静して来たようだった。
 翌朝《あくるあさ》その手紙を入れた足で矢来の老婆《ばあ》さんのところにゆき
「おばさん、もうおすまの奴《やつ》ほかへ嫁づいていやがるんだ!」
 そういって、私は身を投げるようにそこに寝転んだ。
「へえ! もう嫁いているんですって?……誰れがそんなことをいいました」
 昨日《きのう》これこれでお前の老母《おっか》さんから聴いたという話しをすると、
「そうですか。……どうも私にはそんなには思われませんがねえ。けれどもおすまさんも年がもう年ですから、急いでそうしたかも知れません」
 老婆《ばあ》さんは手頼《たよ》りないことをいいながら、相変らず状袋をはる手をつづけていた。
 あんなに私がしおれて正直に出たのだからお前の老母《おっか》さんがよもや嘘《うそ》をいいはすまい。そうすると嫁いているに違いない。嫁づいているとすれば、返すがえすも無念だ。そう思うとその無念やら怨恨《うらみ》やらは一層お宮を思い焦がれる情を切ながらした。

 お宮のいる家の主婦《おかみ》とも心やすくなって、
「雪岡さん親切な人だ。大事におしよ」と、いっていたというのをお宮の口からよく聴いた。
「自家《うち》の主婦さあ、雪岡さんのとこなら待合にゆかないでもあっち行って泊らしてもらっといでと、いっているのよ」
「そうか、じゃ僕のところに来てくれたまえ」
 その内私は加藤の家の主婦にも事故《ことわけ》を話して点燈《ひともし》ごろから、ちょうど今晩嫁を迎えるような気分でいそいそとして蠣殻町までお宮を迎えにいった。
 帰途《かえり》には電車で迂廻《まわりみち》して肴町《さかなちょう》の川鉄に寄って鳥をたぺたりして加藤の家へ土産《みやげ》など持って二人俥を連ねて戻って来た。
「それは御無理はありません。七年も八年も奥さんのおあんなさった方が急に一人者《ひとり》におなんなすったのでは。誰れか一人楽しみがなければつまりません」
 と、いってくれている主婦は、私が女を連れ込んで来たのを快く迎えて枕の心配などしてくれた。
 翌朝《あくるあさ》日覚めると明け放った※[#「木+靈」、第3水準1−86−29、350−下−6]子窓《れんじまど》から春といってもないほどな暖《あった》かい朝日が座敷の隅《すみ》まで射《さ》し込んで、牛込の高台が朝靄《あさもや》の中に一眸《ひとめ》に見渡された。
「好い景色ねえ。一遍自家の主婦さんと一緒に遊びに来るわ!」
 お宮は窓に凭《もた》れて余念もなく遠くの森や屋根を眺《なが》めていた。
 私はまるで新婚の朝のような麗《うら》らかな心持に浸って、にわかに世の中の何もかもが面白いものに思いなされた。
 いつも階下《した》におりて食べる御飯を、今日は主婦さんが小《ち》さい餉台をもって上って、それに二人の膳立《ぜんだ》てをしてくれた。
 私の大好きな小蕪《こかぶ》の実の味噌汁《みそしる》は、先《せん》のうち自家でお前がこしらえたほど味は良くなかったけれど久しぶりに女気がそこらに立ち迷うていて、二人差向いでお宮にたき立ての暖かい御飯の給侍《きゅ
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