るようで咽喉《のど》へ通らなかった。
 そして引越しの方はそのまま小倉に任せておいて私はまるで狂気のようになって家を飛び出した。
「ああ、七年添寝をしていたあの肉体《からだ》は、もう知らぬ間に他の男の自由になっていたのだ。ああもう未来|永劫《えいごう》取返しのつかぬ肉体になっていたのか!」
 と、心を空にその年寄りだという娘の子の一人ある男の顔容《かおかたち》などをいろいろに空想しながら、やたらに道を歩いていった。
 そうしていつか矢来の老婆《ばあ》さんが
「どうもおすまさんは伝通院《でんづういん》の近くにいるらしい」
 と、いったことを思って山吹町の通りからいっさんに小石川の方に出て伝通院まで行って、あすこの裏あたりのごみごみした長屋を軒別《けんべつ》見て廻った。そしてがっかり疲《くたび》れた脚《あし》を引《ひ》き擦《ず》りながら竹早町から同心町の界隈《かいわい》をあてどもなくうろうろ駆けまわってまた喜久井町に戻って来た。
「もう皆な小倉さんが持っていきなすったんですよ。もう何にもありやしません」
 老婆さんは、何しに来たかというように言った。
 だんだん減っていた私の所持品《もちも
前へ 次へ
全100ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング