当においでになるんでしょうか、おいでになるんなら、なるんでそのつもりで明けておくから」
といって、加藤の家の主婦《おかみ》さんが伝言《ことづけ》をしていたというから、それで喜久井町の家の未練を思いきって其家《そこ》へ移ることに決心した。
それは確か十二月の十七日であった。宵《よい》から矢来《やらい》の婆さんのところの小倉《おぐら》の隠居に頼んでおいて荷物を運んでもらった。
萎《な》えたような心を我れから引き立てて行李《こうり》をしばったり書籍《ほん》をかたづけたりしながらそこらを見まわすと、何かにつけて先立つものは無念の涙だ。
「何で自分はこんなに意気地《いくじ》がないのだろう。男がこんなことでは仕方がない」
と、自身で自身を叱《しか》って見たが、私にはただたわいもなく哀れっぽく悲しくって何か深い淵《ふち》の底にでも滅入《めい》りこんでゆくようで耐《こら》え性《しょう》も何もなかった。
小倉に一と車積み出さしておいて、私は散らかった机の前で老母《ばあさん》の膳立《ぜんだ》てしてくれた朝飯の箸《はし》を取り上げながら
「お老母《ばあ》さん、長いことお世話になりましたが、私も今日
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