中の物真似を致しましたが、今は若いからこんな事で人気があつて、どうぞこうぞお客にワアワア言はれてゐるが、こいつが段々年取つて頭が禿げて来る皺が寄つて来るといふ時には、もう若い人気つて言ふものは無くなつちまふから、さうなると芸より他に頼るものがない、噺し即ち話術を勉強しなくちやならない修業しなくちやならないと思つて一生懸命稽古しました。それでまア幸ひ、今余り人のやらないものを沢山覚えてゐます。
そう言ふ具合で段々芸の研究をして来ると、何の芸でも同じ事です。芝居でも長唄でも常磐津でも清元でも新内でも尺八でも、それに連れる三味線でも琴でも、また武術の研究でも、皆修業することは一つで、その一つを極めてしまへば何にでも応用が出来るものです。
噺をする時、自分に慾があつたら旨く出来るものではありません。此処で一つお客に受けさせやうとか、此処で笑はせてやろう泣かせて見ようとか自分で思つたら、必ずお客はもう泣きも笑ひもしません。高座へ上つた以上自分と言ふものはまるで無くしてしまつて、話題に上る人物だけが其処に出てゐると言ふ様でなければ、芸といふものは旨くいくものではありません。剣道でも柔道でも弓術でも同じです、私なぞも弓は好きでやりますが、当てやうとか形をよく見せやうとかいふ野心があつたら、到底当てることは出来ません。其の上、寝ても覚めても芸のことを考へて居る様でなければ駄目です、そうして矢張り本を読まなければいけない、私なぞもその点は始終自分を鞭打つて怠らぬ様にしてをります。
○
今と昔とはどだい修業の仕方が違つてをります。噺家にでもなつたならば、良い着物を着て旨いものを食ひ朝寝もし、身体を楽にして世渡りが出来るだらうなんて了見でなつた奴は成功しつこはありません。
昔は師匠をとりましても、師匠の芸を聴きその芸に惚れて門人になつたものですから、どんな辛い修業でも、我慢して喰ひ付いてゐたもんですが、それが前申上げた楽して世渡りをしやうといふ頭からなつた者は、芸に惚れるんぢやない、この師匠についてゐたら幾らか銭を余計とれるかしら、良い席へも出られるかしらと言ふ考へから弟子になるんですから堪りません。その師匠が少し人気でも無くなつて席へも出られなくなり、従つて収入も少くなると、今度は直ぐ他の銭のとれる師匠の所へ弟子入りをするといふ様な洵にどうも薄情な世渡りになつちま
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