彼女との中に何が起つたかを見たかつたのだらう。僕は、いかにも彼らしいと思つて、少し可笑《をか》しかつた。そして、それだけであつた。
 僕はどんな感情も現はさなかつた。しばらくして、僕は別れを告げた。僕は門を出た。彼女はさつきまで僕たちと坐つてゐた座敷から、門口の見える所の窓まで來て、窓硝子を急いで開けて、さやうなら、と云つた。
 彼女の聲には或る押へられた感情がこめられ、それは何よりも明らかに僕の耳に聞えた。僕はふり向くことをしないで去つた。何かが、僕を押しとゞめたから。それだけだ。あゝ、それだけの無用さがどうしてこんなに、今にいたるまで僕に或る印象となつて殘つてゐるのか。僕はそれを大切にはしない。だがそれは殘つてゐる。そして、しばしば僕に現はれるだらう。――
 僕がこゝの家に着いたときは夕方であつた。僕は風呂へ入つた。それは母屋《おもや》の前庭に獨立して建てられてある一軒の小屋の中にあつた。そこへ入るや否や、僕は猛烈な薪の煙のために息がつまり、眼にはひつきりなく涙が出た。入つたところは小さい土間で、竈《かまど》が入口のところに二つ並んでゐる。その横に風呂桶があつた。煙は風呂の焚口から
前へ 次へ
全25ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング