れぬ不安な感情も湧いて、幾は当惑し、顔を曇らせてゐたが、何とか言はねばならぬ気がして、それほどなら、と、口に出しかけた。軍治は見上げ、ぱつと明るさを顔に閃《ひら》めかした。幾は黙つて自分の手許に眼を落してゐたが、軍治に見つめられてゐると思へば、猶のこと心苦しくなり、やがて苦痛の感じを身体一杯に現はすと、それなり口を噤《つぐ》んでしまつた。
 実際幾はかう云ふ種類の商売は娘の時分から慣れて来たものであり、殊に今は歳が歳だつたから、止めると云ふことは頭で解つても事実の感じが身に迫ると、唯空恐しい気持に脅かされるのだつた。軍治の鳥羽家風の気質がだんだん拡がり出て来るのが重荷でもあり、又、憎々しい気さへした。
 それを又、軍治の方では、情ないと云ふ気の裏から、幾の気持を右から見左から見して詮索し、向うがその気なら此方だつて考へがあるのだぞ、と云ふ風に底冷い様子を身体つきに滲《にじ》ませるのだつた。

 中学も後一年で済むと云ふ時、夏休過ぎて家を立去つた軍治は一月余りで突然帰つて来た。肺尖加答児《はいせんカタル》で、医者から休学を勧められた、と言つた。肺、と云ふ言葉で、幾は顔にこそ出さなかつたが
前へ 次へ
全52ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング