子に思はず横を向かせたこともある。
 しかし、幾に対して、母は真実どんな心持でゐたのであらう。幾は寡婦になつてからこのかた、老母と二人きりで、出入の多い料理屋をともかく後指をさゝれずにやつて来たほどであるから、柔い中にどこか堅気のある女にちがひないが、かうなつた上は父の顔を汚すやうなことをして貰ひたくないと、母はそれをも考へてゐたのにちがひなかつた。
 事実、母と幾との親しさを見て、町の人々も煩《うるさ》く噂はしなくなつたのである。それにしても病身の母があれこれと思ひをめぐらし、努めてそのやうにしてゐるのを眼にとめると、民子はたゞ痛々しいと感ずるのでもあるし、又誰にともなく腹が立つのであつた。
 父は民子に会ふと幾分気まづい顔をしたが、それも最初だけであつて
「変りはないか」と短く訊いたぎり、見慣れてゐる渋味のある顔にかへつて行つた。もともと無口な父は、日常でもさう云ふ調子なのであるが、この場合は、又特別の意味があるやうに民子には思へた。しかし、母が以前にもまして物柔かに父に対してゐるのを見ると、民子は折角の母の心遺ひを無にするやうなことがあつてはならないと思ひ、つとめて父には眼を向け
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