には食事が冷え切つてゐたりした。幾は鳥羽家にゐる間は忘れてゐた晩酌を、その頃から始めるやうになり、くどくどと蒔を捉《とら》へては商売の辛らさを言ひ、時には愚痴の涙まじりに盃を重ねるのだつた。しかし、幾が軍治の記憶にもない頃の鳥羽家の様子を話して聞かせる時には、軍治は楽しく聴入るのだつた。父の気難しかつたことを言つては丁度お前に似てゐる、と軍治を指して笑つた。それから又、母が幾の家へ遊びに来た時のことも話して聞かせた。母は煙草が好きで咽喉《のど》が悪いと云つて咳をし乍らも、煙草を手から離さないやうにしてゐるので、幾がそれでは身体に悪からう、と云ふと、母は、病みつきだからこればかりはね、と笑つてゐたが、矢張りあの煙草好も胸を悪くする因《もと》だつたらう――それを話し乍ら幾はどことなく顔を伏せるやうな風があつた。軍治はその時奇妙な不安を感じた。彼の頭には姉から聞いた母の死前後の模様が残つてゐるのである。幾のことがあつたし、母は随分死ぬ迄気にかけてゐたのだ、と聞いた。母の記憶はなく、幾の親味《したしみ》だけが胸にある軍治には、それも唯聞いてゐるだけであつたが、この場合になつて不意に湧き上り、重
前へ 次へ
全52ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング