もそれと見てとれるほど嬉しさうな顔をした。鈍い、霧の中からだんだん明瞭に近づいて来る人声のやうに、軍治の中で何か響き答へるものがあつた。
 幾から子供用の新しい番傘を渡されたことがある。小学校へ通ふ子供は誰も自分の傘に遠目にも解る程大きな字で姓名を書いて置くのが習慣だつた。軍治の開いて見た傘には黒々と、中村軍治と云ふ字が真新しく浮いてゐた。今でも町の人は彼を呼ぶのに「鳥羽さん」と言つてゐた程であつたから、軍治にはこの新奇な不慣れな姓が恥しかつた。軍治は家の出口で、きまりが悪い、と言ひ言ひ、傘を開き目にしたり閉ぢたりした。すると、それまで笑顔で眺めてゐた幾が不意に恐い顔をし、どこがきまりが悪いの、と言つた。軍治は泣き顔をして傘を肩に被《かぶ》さるやうにし、道の端ばかりを見るやうにして歩き出したのだが、突然の幾の権幕の意味が解らず、無闇と辛かつた。
 旅館とは云ひ乍ら昔風の大きな家を改造し、建増したものであつて、外見は普通の家と殆んど変りのない格子戸が廻してあり、内部へ入ると広い式台のある玄関から真直ぐに長い光る廊下が奥に伸びてゐた。その廊下は三棟の二階家をつないでゐるもので、戸外から覗い
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