だが、それもこれも家屋敷が銀行に引渡される迄のことであつて、もう嫁いでゐて云はば身の固まつた姉達にはともかく、男の兄弟三人の生活と云ふものはそれ以来全く思ひ思ひの方向に絶ち切られてしまつた。次男の昌平は鉱山師だと云ふ新しい養父に連れられて、南の方のK市に行つた。長男の竜一には学資として多少の金が取除かれてあつたが、始の中は止めると云ひ張つてゐた学校の寄宿舎へ、宥《なだ》められて立ち去つた。彼には最早帰るべき家と云ふものがなく、先祖の位牌は彼が一家をなす迄といふ約束で幾の家に預ることになつた。
 軍治は一人一人立ち去つて行く親戚の者や姉達から、幾は最早「母」であつて「小母さん」ではないことを煩《うるさ》い程言ひ聞かされた。余り執つこく言はれたので、軍治はかへつて不安になつた。幾の顔を見ると、その事が頭に浮び、変に言ひ難かつた。口に出しかけてもぐもぐしてゐると、幾はしかけてゐた仕事を止めて、軍治の方を向いたりした。それが「母」と呼ばれるのを待つてゐた様子なのかどうか、軍治には解り兼ねた。しかし、或る時、何気なく、戸外から走りこんで来たはずみに「母さん」と大声に言つてしまつた時、幾は軍治に
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