まで起きて何か書き物をしてゐたのは知つてゐたが、新しい商売の支度に忙しかつたので、真逆それが遺書だとは気がつかなかつたのである。
 最初から、いつもの気質で鳥羽は幾に向つても何も言ひはしなかつた。それでも、多少は耳に入ることもあるし、又急に出入の激しくなつたことや、ますます気難しい眉になつて行つた鳥羽の顔で、大体の様子は知つてゐた。いよいよ身動きの出来ない所に来て、鳥羽は「面目ない次第だがかう云ふ事になつた」と悉《くは》しく話してくれたのであるが、話の理否条路は女の幾には聞いたところでよく解るわけでもなく、たゞ胸のつまる思がした。
「何分よろしく頼む」と、自分のこととも軍治のことともつかず、鳥羽が幾に向つて頭を下げた時には、あの他人にはこればかりも弱味を見せたことのない人がと云ふ気がして、幾はその顔をまともに見ることさへ出来ない思をした。
 なにか起らねばよいがと云ふ気もして、幾は幾なりに鳥羽の様子に気をつけてゐたのであるが、あれが遺書だと知つたならどんなことをしても死なせるのではなかつたと、思ひ出してはそれを考へ、又、民子などとも話し合つて泣いたのである。
 あの朝も、鳥羽は、一寸向
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