けるだらうと云ふ気持もあつた。
しかし、幼い軍治に対してさへ頭の上らないところが重なると、自分ながらどうしてこんな気になつたのだらう、と思ふことがあつた。たゞ、幾の心を和《やはら》げてくれるのは鳥羽だけであつて、彼は折に触れ
「お前には済まんな」と短く言ふのだつた。それも時々であつて、鳥羽は相変らず家の中のことは見て見ないふりをしてゐるのだつたが、ある時ふいに卯女子を叱りつけたことがある。
事柄は些細なことであつたが、鳥羽の怒りやうといふものは実際思ひがけないほどで、幾は始め何事かと思つた位であつた。聞えて来るのはやはり幾にも関係のあることなので、とりなすことも出来ずはらはらしてゐた。すると、卯女子は顔を押へながら父の部屋を出ると、その儘台所の方へ走つて行き、物音にぽかんとした軍治が、玩具《おもちや》を手にしたまゝ突立つてゐるのをやがて出て来た父がその頭を撫でたが、軍治はやはり驚いたやうに幾を見てゐて、これも亦いきなり泣き出すと幾にすがりついて来た。鳥羽は苦笑してその場を立ち去つたが、幾はその時位自分の身の置き場のない思をしたことはなかつた。それ以来幾はかうしてこの家にゐる以上、自分の苦労などは決して表面に見せてはいけないものだと考へを決めたのである。
だが蒔は別居してゐるだけに何かと気にかゝるらしく、時々顔を見せるのも幾の様子を見に来るのであつた。前とちがつて幾の指の荒れて来たことや、身仕舞なども構つてゐられないところなどは、どうしても眼につくらしかつた。幾はそれを隠すやうにしてゐるのだが、時には母にだけ見て貰ひたいと思ふこともあるのである。しかし蒔がぢくりぢくりそれに触れて来ると、幾は又腹が立つた。
その蒔がある日悪い時に顔を出した。
幾が軍治に殴られてゐた。何を怒つてゐるのだか解らなかつたが、脾弱《ひよわ》で癇癖の強い軍治は地団駄を踏みながら、何ごとか喚《わ》めいて幾の肩を小さい手で打つてゐた。幾は台所の板間に片手を突き、押しこらへるやうに肩を軍治のするまゝに任せてゐた。それを見ると今までのことが一ぺんに頭に来たのか、蒔はさつと顔色を変へて、物をも言はずに近よると、いきなり幾の腕を捕へて引き立てようとした。幾はその権幕に押されて、たゞ理由なく引き起されまいと身を圧しちゞめてゐたのであるが、蒔はどこからこんなに力が出るのかと思はれるほどぐいぐい曳いて来
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