た。見れば口も利けないほど興奮してゐるらしく、唇をたゞ無暗に動かせるだけで眼を据ゑてゐるのがすつかり普段の蒔ではなかつたので、幾はますます尻ごみしてゐると、それまで吃驚《びつくり》したやうに立ち辣《すく》んでゐた軍治が突然大声をあげて走つて逃げた。向うの子供部屋のあたりで激しく泣いている軍治をなだめてゐるのは卯女子らしく、他の児達の声も混つてゐたがやがてそれも止まり、急にひつそりとなつてしまつた。その切つて落したやうな空々しい沈黙の中で、幾と蒔の二人はやはり言葉もなく揉み合つてゐたのであるが、やがて二人とも疲《くた》びれ、静かになり、幾はそのまゝ板の間わきの土間へぺつたり坐りこんでしまふと、今はたゞ突張つただけの両腕の間に顔をすり落して、低い子供のやうな啜り泣きを始めた。
依然として父からは「可憐児」として扱はれ、母親代りに手塩にかけて来た卯女子からは特別な愛情を注がれてゐたので、軍治は本能だけが鋭敏な子供らしい増長をしてゐたのだつた。言つてみれば、幾は自分のために何でもしてくれるのだし、また自分がどう仕向けても構はない、と云ふ考へ方が自然と軍治の中に出来上つてゐた。しかし乍ら、母親の記憶と云ふものを全然持ち合はせてゐないために人懐《ひとなつこ》いところもあつたので、一面には他のどの兄よりも幾に親しんでゐたのも亦事実である。
この点は幾にしても同じなのであつて、今では軍治に対して自分でも不思議なほど情愛を持つてゐるのだつた。自分の子と云ふものを持つたことはないのだから、これが母親の気持だと頷《うなづ》くことは出来なかつたし、又、卯女子が居て自分がさう云ふ立場になれるわけもなかつたが、軍治に甘えられると云ふことで理由のない喜ばしさを感じるほどにはなつてゐた。
それやこれや、彼女が今まで想像さへしてゐなかつた気持を少しづつ経験しはじめたのは正しく云へば卯女子が他家へ嫁ぐ前後からのことである。第一、当の卯女子にしてからが、さう云ふ話になると父に向つては直接頼み難い事があると見えて、自然幾が代りに口も利けば間にも立つと云ふ風で、幾と卯女子との仲はいつとはなしに柔かなものになつて行つた。支度や何かで卯女子が忙しくなると、軍治の世話も大抵は幾が見ると云ふ工合になつた。今の中に癖をつけて置かなければと云ふので、軍治は幾に抱かれて寝るやうになつた。そしてこの寂しがり屋の児は
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