っていたら、民さんの方もやはりそうだった。民さんは四十いくつだという、小柄で、顔も同じように小さいが、それなりに輪郭《りんかく》のととのった顔だった。毎朝牛をつれて山へ行き、夕方|薪《まき》を背負って牛といっしょに帰えってくる。昌さんは三十を越しているというが、二十三四にしか見えない。そしてひょろ長い。眼はひどい斜視だが、いつも上瞼が垂れているのでどこを見ているのかわからない上に、まるで人を軽蔑している風に見えるのだった。僕がはじめて彼を見て驚いたのは、そのいかにも憂鬱な表情だった。誰かが彼の前へ現われると、彼はさっさと逃げて行くが、そうでないときはじっとどこか一点を(といっても視線はわからないが)見て、額いっぱいに皺を浮かべる。まるで思いあぐんでじっとその場に立ちすくんだという様子だ。そういうときは声をかけてもだめだ。答えないし、答えても「ええそうです」「そうです」との一点張りだ。それもいやいやでいかにも煩《うる》さそうだ。
もっともこの「そうです」は彼の口癖で、彼が何かといえば唄う歌、「恋し、恋しい銀座の柳」の後でも「そうです。ええ、そうです」とつけ加えるのだったが、なぜ彼はこん
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