と遠くの方からちゃんと知っていて、だんだん頭を地面に下げる。うっかりすると、角を持ち上げてぬっと迫ってくる。そいつは肩から首から、とても巨《で》かくて、牛というよりは猛獣に近い。正代は平気でそいつの鼻面をつかまえる。時々近所の人が牝牛をひいてカケてもらいに来るが、それはみな正代の役目だ。この娘はだんだん僕に慣れて、散歩のときなんかに会うと笑ってみせる。それがあのただ眼を細くするだけなのだ。ときどき向うから話しかけるが、まるで単語をならべるような話しぶりだ。
「これ、マグサだ。牛は好きだ」
「どこ行く? ウン海か」
 そんなことを言って、例の微笑をやる。島の女の人の風習らしいが、正代も風呂敷《ふろしき》や何かの布れでいつもすっぽりと頭を包む。まるでロシアの農婦の被《かぶ》るプラトオクのようだ。
 その格好でどんな土砂降りの雨の中でも平気だ。時には頭から肩からぐしょ濡れになって、日照りの下を歩くと同じに仕事している。奥さんに訊くと、雨どころか、冬でも蒲団《ふとん》なんかきて寝ることはないという。いつも縁側にごろ寝する。彼女は白痴でこそなかったが、母親は白痴で、彼女はその私生児なのだった。正
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