うだ。お茶、お茶。おい、お茶を出してくれ」
と、相手は慌ててその筒抜けな声を庫裡の居間に向けて放つた。
「いや、どうぞ構はんで下さい」
「どういたしまして。お茶位さし上げんと」
いきなり忙《せ》はしなく立上ると庫裡へ走つて行つて、間も無く茶器を揃へた盆を自分で持ち運んで来た。長い胴を折り曲げるやうな危つかしい調子で房一の前に置くと、
「さあ、どうぞ。仇《かたき》の家へ行つても朝茶はのめ、と云ふことがありますよ。お茶ぐらゐはのんでもらはんと――」
「いやあ、全く」
房一は苦笑した。
間もなく千光寺の山門を出た房一は、殆ど人通りと云つてはない一本町の本通りを更に上手へと歩いて行つた。両側には軒の低い、一体どんな商売で暮しを立ててゐるのか判らないやうな、古障子を閉めきつた家が並んでゐた。その間々にちつぽけな、素人《しろうと》くさい塗り方をしたニス枠の飾窓に、すぐに数へられる位にばらつと安物の時計を並べた家や、埃の一杯かゝつてゐる雑穀屋の店さきなどがはさまれてゐた。まつ昼間だと云ふのに、通りには殆ど人の気配がなかつた。或る家の前の土間では、犬が一匹、その犬は捲の尻つぽをくるりとさせたま
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