れるまではすつかり度忘れしてゐたのだらうか。いや、決して! 彼ははつきり覚えてゐる。去年の九月にあすこの中庭の土塀のわきで無花果《いちじゆく》が色づいてゐた、それは今年も同じやうに色づいた。ちがつたのは、今年はうんと実がなつて盛子と二人では喰べきれなかつただけである。あのとき老父の道平と二人で坐つた座敷はまだがらんとして落ちつきを欠いてゐたが、今は別に家具がふえたわけでもないのに、何となくしつとりし、人の匂ひが浸みこみ、あのときのやうに乾いてゐないだけである。それは何も変つてゐないことである。同時に大した変り方である! 吾々は暦の上で立春だの立秋だのいふ区別をして、それを紙片にはつきり判るやうに印刷してゐる。だが一体、春はいつやつて来るのだらう、冬はいつやつて来るのだらう。温かつたり寒かつたり、暑かつたり涼しかつたり、それはとりとめもない曖昧のうちに何かしらどんどんやつて来、どんどん去つて行くのである。吾々は紙に印刷した日附だの文字だのでさういふものを捉へようとするが、捉《つかま》つた試しはめつたにない。それなら、房一が盛子の何気ない一言ですつかり感動してしまつたのはどうしてだらう?
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