はじめた。
房一は何もかも忘れてゐた。日頃の思案深げな額の皺はいつそう強く刻まれてゐたが、それは却つて或る夢中な輝きを示してゐた。彼は何ものかに捕へられてゐた。何かが胸の奥深くでよびさまされてゐるやうであつた。首筋に焼けつく日の暑さ、水流のきらめきや、絶えず水に濡れて黒く光つてゐる沈み岩の頭、滲み出る汗と共に何かしら揉まれしぼり出される身内の或る物――それらは彼の幼時の記憶に確《し》つかりと結びついて、その頃の漠とした幸福感を近々と思ひ出させた。
ふいに、彼は頭を上げた。
はるか下流の方で、鈍いが、重味のある大きな音が響いたのだ。それは、はじめぼおーんといふ風に聞え、つゞいてドカンドカンと来た。
「ふむ、トンネルのハッパだな」
さう呟きながら、下手を眺めた。
手前の方では音もなく縞をつくつて速く流れてゐる河は、ずつと先の方で細い、ちらちらした、絶え間なく動く縮緬皺《ちりめんじわ》となつて見え、そこに素晴しい高さの岩がによつきりと宛《あた》かも河を受とめた工合に立つてゐた。その蔭にあたる河縁《かはぶち》には急ごしらへのバラック建が点々としてゐた。それは工夫小屋だつた。鉄道工事が
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