だつた。文太郎の代になつて酒造をやめてしまつた後も、しばらくは帳場格子も元のまゝ据ゑられてゐたが、いつの間にかそれもどこかへ片づけられ、以前はこれでも狭すぎる位だつたこの二間ぶち抜きの店の間は年来畳の広さを見せたきり何の役にも立たない風だつた。それは正《まさ》しく一種の死だつた。
が、今夜は入口の大戸が開け放たれ、土間には打水がされ、眩《まぶし》いほどの電気で照し出され、絶えず出入りする人の気配と、土間づたひの台所の方から流れて来る何かの匂ひや湯気で温《ぬく》もつた空気のために、この広い店の間は何年か振りに息をふき返したやうであつた。店の間の突きあたりには美しい紅味を帯びた褐色の塗りのかゝつた造りつけの戸棚が四間の長さにわたつてどつしりと立つてゐた。それはこの何もない単調な部屋に一層重厚な装飾的効果を見せてゐたが、その上には更に鍵屋の定紋である下り藤のついた四角な箱がずらりと天井近くを横に並んでゐた。それは恐らく提灯を蔵《しま》つてあるのだらうが、木箱の上に厚い和紙張りを施され、その白地に黒々と染め抜かれた大きな紋はこれ又ふしぎに冴え冴えとした色調を以て浮び上つてゐた。ふだんは日中で
前へ
次へ
全281ページ中125ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田畑 修一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング