qの某家へ、私宛に倫敦の下宿から厚い封書が届いている。シベリア経由だから私たちより先に疾《と》うの昔に着いたのだ。莫迦に重要めいてるが何だろうと思って開けてみると、出発の時あれほど骨を折らした古い旅券が出て来たには驚いた。手紙がついていた。
「御出発後、女中がお部屋を掃除しましたところ、戸棚の敷紙の下からこれが出て参りました。勿論あなた自身が安全のためそこへ入れて置いてお忘れになったものでしょう――。」
 まさにそのとおりの記憶がある。いたずらにかの老婆をして名を成さしめたに過ぎないのが、私としてはいま遺憾この上ない次第だ。
 ところが、倫敦《ロンドン》の領事館で貰って来た第二の旅券である。
 これをまた神戸のオリエンタル・ホテルに忘れて来たと言って大騒ぎをした。
 六月三日に神戸入港、八日横浜へはいるはずだったSS・H丸が、一日早く――NYKの船でも予定より早く着くこともあるという実証のために――二日に神戸へ投錨してしまったので、八日まで一週間近くも神戸桟橋の船内でぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]しているわけにも往かないから、入港と同時に上陸してオリエンタル・ホテルに二日泊ったのだが
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