フ湾《ガルフ》――毎晩徹夜して、「黄色い貨物」のように忠実に僕はその渦紋の軸に立ちつくしたものだ。
そうすることによって、僕は完全にLISBON港の|お客《ゲスト》になってたのだ。波止場のお客さんと言えば、いでたちも君、大概きまってよう。何世紀か前には地色の青だった、油で黒い火夫の仕事着に、靴は勿論片ちんばでなければならない。それに、桐油引《とうゆび》きの裾長《すそなが》外套――岬町《ケイプ・タオン》印し――しかし君、煙草だけはどうも他のは喫《の》めない。なんて、Perfumes de Salon, 亜弗利加《アフリカ》あるじぇりあ製のあれだ。あいつを茶色紙にこぼして、指先で巻いて端を舐《な》めながら、桟橋のでこぼこ[#「でこぼこ」に傍点]石垣に腰かけた僕の視野は、蔑晩もつづいて「古いインクの展開」とその上の植民地風だった。
SHIP・AHOY!
夜も煙りを吹いて船が出はいりして、何本もの航路が縦横に光っていた。波止場のそばのテイジョの河口は、青く塗った大帆前船《パルコ・デ・ヴェイラ》の灯で賑《にぎや》かだった。この船は、「|大西洋の真珠《ペルラ・ド・アトランチコ》」と俗称されるアゾウレスとマデイラの南島から、材木やバナナを積んでくる。昔この国の人は、リスボアから船出して三日も往くと、|暗黒の海《マアル・テネプロウゾ》があって、船が断崖から闇黒のなかへどかん[#「どかん」に傍点]と落ち込むように信じられていた。だから、こんな浪漫的な暗黒の海が商業的にすっかり明るくなって、この、全山花にうずもれた二つの無人島が発見されたのは、海洋史上比較的近代のことに属する。何と少年的な海の時代さであろう? りすぼんはその過去性で一ぱいだ。現にこの、夜の僕の行きつけの波止場カイス・デ・テレレ・ド・パソも、バスコダガマが印度《インド》航路への探険に出るとき祈った聖ジェロニモの寺院――いまはそこに彼の遺骸が安置してある――や、何年となく毎日国王が頂上から手をかざして、東洋からの帰船とその満載してるはずの珍奇な財宝とを待ちあぐんだというベレンの古塔に遠くない。じっさい僕が踏んでる波止場の階段も、その黄金治世の印度《インド》の石材で出来てるのだ。僕の|心の眼《マインズ・アイ》を、光栄ある発見狂時代のリスボンの半熱帯的街景がよぎる。フェニキア人の頃から、何とたくさんの黒人と赤人と黄人の異装徒が、それぞれ何と夥《おびただ》しい金銀・香料・海陸の物産を貢《みつ》ぎものに捧げて、このテイジョの河口をはいって来たことだろう! 大理石の膚《はだ》の各国女奴隷・その売買所と仲買人の椰子《やし》の鞭《むち》・宗教裁判と火刑広場の野次馬・海賊|来《きたる》の銅鑼《どら》と吊橋の轆轤《ろくろ》を捲く大男の筋肉――そして今は、不潔と無智と猥雑と、海犬《シイ・ドッグス》の群と考古学的価値のほか何一つ近代文明への関点を有《も》たないりすぼあ[#「りすぼあ」に傍点]!
世界の隅っこに、これほど地球の進展から隔離された塵埃《じんあい》棄て場が現存し得ようとは、たしかに何人《なんぴと》も想像しない一驚異であろう! その雑然たる廃頽《はいたい》詩と、その貧窮への無神経と、その戦慄すべき alien banality と――。
SHIP・AHOY!
こうして改めてあたりを見廻しながら、その晩も僕は波止場附近に張りこんでいた。何か turn up するのを待つこころで。
真夜中だった。暗いなかに急に人影がざわざわ[#「ざわざわ」に傍点]して、一団の女がしずかに桟橋を下りて行った。桟橋の端には、物語めいた一艘の短舟《ボウテ》が、テイジョ河口の三角浪に擽《くすぐ》られて忍び笑いしていた。訓練ある静寂と速度のうちに、一同がそれに乗り移ると、そのままぼうて[#「ぼうて」に傍点]は漕ぎ出して、碇泊中の船影のあいだを縫って間もなく海へ消えた。そして暫く帰ってこなかった。が、帰って来ると、その女群が同じ沈黙と速度をもってボウテから桟橋へ上り、僕の立ってるまえを順々に通りすぎて町のほうへ消えていった。いつものびっこ[#「びっこ」に傍点]の小男が隊長している。今夜も沖を訪問してきた女たち――大きな「?」のなかから一行のあとを見送ってる僕へ、最後に小舟をあがったその小男が接近して来た。
『がた・らい?』
上海《シャンハイ》英語だ。紳士語では、「燐寸《マッチ》をお持ちでしたらどうぞ」――僕が応じた。
『YA。』
そしてまっち《アモルフォス》を突き出した。
すると跛足《リンピイ》リンプ――これはあとから酒場で自己紹介し合って判ったのだが、男は、Limpy Limp なる呼名《よびな》に自発的に返事して、つまりびっこだった――は、ここで一そう、ぴょこんと僕の胸へ飛びつくように現れて、それから、もう一度手を伸ばした。
『ガタ・エネ・セガレツ? HEY?』
今度は煙草だ。はじめはマッチ、つぎにたばこ[#「たばこ」に傍点]と逆なところに、これも後日|追々《おいおい》判然したんだが、愛すべきリンピイの狡才があった。仕方がないし、それに僕は、すこしでも長くこいつと会話して、出来ることならその「夜のおんな舟」の秘密へ一|吋《インチ》でも近づきたかったから、さっそく「|客間の香気《パフュウム・ドュ・サロン》」のふくろを提出しながら、
『取れ。但し一本。』
『勿論《コース》!』
と燐寸《まっち》を擦《こす》って、そこで彼は、その火の輪のむこうから僕の顔に驚いた。
『HUM! いよう! お前は毎晩ここらをうろ[#「うろ」に傍点]ついてる支那公《チンキイ》だな!』
『YA。ロン・ウウって名だ。』いいことにして僕が答えた。『お前はまた、いつも夜中におおぜい女を連れて海へ出るじゃないか。何しに行くんだ?』
『U−hum !』
リンピイはただ頷首《うなず》いた。が、彼が、いぎりす生れの「決して帰らない迷児《まよいご》」のひとりであることは、その語調で直ぐにわかった。とにかく、ふたりの港の客人ロン・ウウとリンピイ・リンプは、こうしてそこの、波止場《カイス》の夜露と「|客間の香気《パフュウム・ドュ・サロン》」のなかではじめての握手を交したのだ。
ぱふ・ぱふ・ぱふ――暫らく黙ってたのち、煙草のあいだからリンピイが訊いた。
『何してる今。』
『ME?』
『YEA。』
『なんにもしてない――煙草をふかしてる。』
ぱふ・ぱふ・ぱふ―― and then,
『どこから来た。』
『ME?』
『YEA。』
『支那から。』
『英語は?』
『波止場《カイス》の英語なら、YEA。』
『GOOD! どうせお前なんかどこへ行ったっておんなじなんだろう。どうだ、俺んとこへ来て手伝《ヘルプ》しないか。』
『ME?』
『YEA。』
『何を――?』
『しっぷ・ちゃん。船上出張商人《シップ・チャンドラア》だ。知ってるだろう?』
ぱふ・ぱふ・ばふ――何と便利に自分から持ち上りかけた大MYSTERYのふた[#「ふた」に傍点]! |眼の眩む喜望《ダズリング・ホウプ》が僕の発声機能をまごまご[#「まごまご」に傍点]させて、ちょっと口が利けない。それをリンピイはさっさ[#「さっさ」に傍点]と承諾にきめて、早速踊るように歩き出した。僕はついてく。桟橋の話声・深夜の男女の雑沓・眠ってる倉庫の列・水溜りの星・悪臭・嬌笑。Eh? What?
5
窒息しそうな濃いけむりのなかに、海の陽《ひ》やけで茶褐に着色された無数の顔が、呶鳴《どな》って笑って呪語していた。鋼鉄の指金具《ナックル》とあき[#「あき」に傍点]壜は星形の傷痕をのこす。頬へ受けた刃《ナイフ》は、古くなると苦笑に見えるものだ。マラガ生れの水夫長《ボウシン》、パナマ運河コロン市から来た半黒《はんぐろ》の三等火夫、濠州ワラルウの石炭夫《コウル・バサア》、ジブロウタの倉番《ストッキ》、聖《サン》ジャゴの料理人、ロッテルダムの給仕、各国人種から成る海の無産者と、大きな喧嘩師《ブルウザア》と敏捷な|ちび《ラント》と、留索栓《ビレイング・ピン》の打撲傷と舵手甲板の長年月と、そしてそれに、荒天の名残の遠い港のにおい[#「におい」に傍点]、強い顎《あご》と蕈《きのこ》のような耳、桐油《とうゆ》外套に赤縞のはんけち――海岸通りサン・ジュアン街の酒場《アベニダ》は、深夜の上陸船員で一ぱいだった。
そこへ、リンピイと僕が半|扉《ドア》を押したのだ。
すると一度にこの異国語の tenor crescendo だ。どこの貨物船の乗組員にも特有な、ストックホルム産|炭油《タアル》の香《におい》だ。それが S57 の感情的な水平線と、snappy な岬《ケイプ》ホウンの雲行きを思わせて、この狭い酒場《タベルナ》内部の色のついた空気を滅茶苦茶に掻き乱していた。
呵々大笑するふとった酒神《バッカス》、習慣的に一刻も早く給料袋をから[#「から」に傍点]にしなければ安心出来ない船員たちのむれ!
正面にずらり[#「ずらり」に傍点]と瓦斯《ガス》タンクのような大樽《バリイル》が並んでる。その金具の輪が暗い電灯に光って、工場地帯行きの朝電車みたいな混み方だ。数人の酒場男《タベルネイロ》と酒場女《タベルネイラ》が、この、戦時そのままの騒ぎを引き受けて、酒をつぐ・グラスを抛《なげ》る・金をひったくる・お釣りを投げる・冗談を言い返す・悪口もかえす・喧嘩の相手もする・自分も呑む。酒はきまってる。|燃える水《アグワルデンテ》。言わば、ほるつがる焼酎。一ばい金2|仙《セント》――どいす・とすとんえす――也。
壁は、十九世紀末葉の雑誌の口絵で張り詰めてある。何といううら[#「うら」に傍点]悲しい明け方の夢の展覧会! 蜂《はち》のような腰の馬上貴婦人と頬ひげの馬上紳士。乳を出して笑ってるボンネット。大帆前船《バアカンテン》難航の図。花の代りに美人の顔が咲いてる絵――これは仏蘭西《フランス》しゃぼんの広告――寝台の脚とそばに脱いである男女二足の靴だけを大きく出した写真――靴屋の広告――「OH!」と題したのは、女が向い風に裾《すそ》を押さえて困却してるところ。豚とダンスしてる坊さん。錨《いかり》をあしらった老船長の像。万国国旗一覧表。隣りはあめりか煙草 111 の広告画。
郵便棚も置いてある。この酒場へ頼んで、ここを郵便の宛所《アドレス》にしてる各国の船乗りが大分あるとみえる。寄港のたびに立ちよって受け取る仕組なんだろう。手紙や葉書がたくさん挟んである。混雑に紛れて、僕は郵便棚へ近づいて二、三枚手に取ってみた。古いのばかりだ。手垢《てあか》とごみで薄黒くよごれてる。が、これは一たいどうしたというのだ?――酒場の常連はきまってるはずだ。酒番の主人に顔の知れた船員ばかりで、あす出港という晩なんか、「おい、これからちょっと地中海まわりだ。今度はひと月ぐらいだろう。手紙が来たら頼むぜ。」「承知しました。気をつけて行って来なさい。よそであんまり変な酒《やつ》を呑《や》らねえようにね。」なんかと別れて、そして帰港するや否や、不恰好な既制服に、新しい安靴で久しぶりの固い土に足を痛めた彼らが、若いのも年寄りも、みんなどんなに期待に燃えてこの酒場《タベルナ》の郵便棚のまえに犇《ひしめ》くことであろう! すると、来てる来てる! 恋人から妻から娘から老母から! 眼白押《めじろお》しに立って、一枚々々熱心に自分への宛名を探す海獣たち――僕もこうしていまその一人を装《よそお》ってるんだが――この時は、彼らも完全に良人《おっと》であり、父であり、息子であるだろう! それだのに、みんなに捜し残されて、ここにこれだけ溜ってるのはどういうわけだ? これらの宛名の主は、船出したきり帰って来ないのか? 何と、船乗りへ届かない手紙の不気味さ! |暗い海底《マアル・テネブロウゾ》へは転送のしようもあるまい。
が、港の酒場はすべての不可能を信じてる。じっさい、七年前に笑って地中海へ出て行ったきりのあの男、一八九三年のXマスの晩に最後に見た彼――それらがひょっこり[
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