煤uひょっこり」に傍点]いつあらわれないとは who could tell? だからこうして、そっくり保管して待ってるんだろうが、封筒も葉書も、それから毎日、一応出入りの客の調べを受けて真っくろだ。
 何といろいろな人生を黙示する、この、受取人のない酒場の郵便! 陸の声が、ここ「大地の果て」でぷっつり切れてるのだ。素早く僕は宛名に眼を通し出したが、急いでるのと、何しろどれもこれも非道《ひど》い悪筆のうえに、おまけに得態《えたい》の知れない外国語がおもなので、名前だけでも容易に読めない。ジョセフ何とかいう男へ、白耳義《ベルギー》アントワアプのKCN――これだけでは差出人の性別はわからないが、「御存じより」と言ったところだからまず女とみてよかろう――から三通来ている。三つとも1926年で、これはわりに新しい。ほかに「サルデニア島トルトリ」と投函地名だけ判読出来たのが一本、他は書体がくしゃくしゃ[#「くしゃくしゃ」に傍点]しててどうにも手に負えない。そのうちに、英吉利《イギリス》 Hull 港の絵葉書がひとつ出て来た。Mr.Arthur W.Cole へ宛てたもので、差出人の名は書いてないが、なくても解る間柄なんだろう。文言も、男の字で大きく Souvenir と走り書きしてあるだけだった。
 入口の横に、黒板が一枚立てかけてある。下級船員専門の桂庵《けいあん》の募集広告だ。が、ちっとも希望者がないとみえて、貼り出してあるのは、求人の部ばかりである。水夫・水夫・石炭夫。なになに号・なになに号・なになに号・高給・高給・高給・別待・特遇・履歴不要。なかに一つ「大工をもとむ」と特別大書してある。この黒板面はいつも変らないとみえる。何年にもこのとおりで、消すこともないらしい。あき[#「あき」に傍点]を埋めて、一めんに船乗りの楽書きだ――。
 リンピイの声が、僕を酒台へ呼び戻す。
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けれ・うま・ぴんぎにあ!
[#ここで字下げ終わり]
「|一ぱい飲まねえか《ケレ・ウマ・ピンギニア》」――一杯てのは「ぴんが」なんだが、そのピンガに愛称をあたえてぴんぎにあ[#「ぴんぎにあ」に傍点]――みんな仲よくこの|燃える水《アグワルデンテ》のピンギニアをあおりつけてる。
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お! いっぺえやりねえな。
けれ・うま・ぴんぎにあ!
けれ・うま・ぴんぎにあ!
ありがてえ!
おぶりがど!
おぶりがど!
おぶりがど!
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 節《ふし》くれ立った指に、幾つも並べて嵌《は》めた十八金の大指輪――これは伊達《だて》ばかりじゃない。めり[#「めり」に傍点]拳を喰《くら》わす時の実用のため――が、あちこちに毒々しくちら[#「ちら」に傍点]ついて、ぺっ[#「ぺっ」に傍点]と唾をして靴でこすりながら――。
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えっ! |腹の虫を殺してやれ《パラ・マタアル・ウ・ビッショ》!
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 誰もかれも、この呪文を合図に、威勢よく「燃える水」を流しこむのだ。そうだ! この強いやつで腹の虫を殺せ!
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えっ! ぱら・またある・う・びっしょ!
えっ! ぱら・またある・う・びっしょ!
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 とん、とんと酒台に鳴るから[#「から」に傍点]こっぷの音。
 ――こう明るいところへ出てみると、リンピイ・リンプは若いくせに老人《オウルド・マン》だった。全く、ちょっと年齢のはっきりしないリンピイだった。ひどく老《ふ》けても見えたし、そうかと思うとかなり若いようでもあったが、たぶん四十五、六らしかった。よれよれ[#「よれよれ」に傍点]の茶の背広を着て、洋襟《カラア》のかわりに首のまわりに青い絹を結んで端をだらり[#「だらり」に傍点]と垂らしてるのが、恐らく前世紀的でもあったし、また観察によっては、領地巡視中の英吉利貴族《イギリスロウド》といった場外れの効果がないでもなかった。じっさい、いささか「ゴルフ・乗馬・午後の茶」の筆触《タッチ》をつけて古風に気取ってみたいのが、この潮臭い無頼漢|びっこ《リンピイ》・リンプの趣味らしかった。しかし、その不幸な歩行機関の支障と、あまぞん特産のポケット猿みたいな小さな顔と、鼻からロへかけて間歇的にひくひく[#「ひくひく」に傍点]する筋肉|痙攣《けいれん》と、悪疾のため舌の絡む語調とが、可哀そうな彼の努力のすべてを裏切って、親愛なリンピイ・リンプを、やっぱりただの「りすぼん埠頭の幽霊」|びっこ《リンピイ》・リンプ以上の何ものにも買わせていなかった。つまり事実は、彼リンピイは「港の Old Man」に過ぎなかったのだ。
 船で|おやじ《オウルド・マン》と言うと船長のことだ。そして、船から上って陸《おか》で|おやじさん《オウルド・マン》といえば
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