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第三の場処「夜の花園」――については、残念ながら何ら筆にすることが出来ない。ただ所在を記《しる》すだけにとどめておこう。広場《プラス》ダンフェル・ロウに近いルウ・デ・アウブルの一〇八番だ。
第四の場処「狂画家の工房《アトリエ》」――これも困る。
つぎは第五「人魚の家」―― 87, Rue de L'Orange。ノウトルダムのすぐそばである。これも、這入った時は何のへんてつ[#「へんてつ」に傍点]もない、相当の広さの普通の応接間だった。
が、一同がその部屋へ案内されて、さて、これから何がはじまるんだろうといったふうに、多少要心するような態度で、きょときょと[#「きょときょと」に傍点]そこらを見廻していると、何らの予告なしに急に室内の電灯が消えて真暗になった。すると、どこかでざわざわ[#「ざわざわ」に傍点]と水の動く音がして、おや! と思ってるうちに、映写のようにぱっと真上から強烈な光りがさした。そして、敷物と言わず家具といわず人の肩と言わず、部屋全体に無数の影がゆらゆら[#「ゆらゆら」に傍点]と揺らめき出した。
とこういうと、何か人為を超越した恐しい設備でも伏せてあったように聞えるが、なに、よく観察すると至極簡単な装置なんで、誰だって、部屋へ通されると同時に天井へ注意を向ける人なんかないから、今やっと気が付いただけのことなんだが、ここの天井は一面に硝子《ガラス》張りで出来ていて、上に水が張ってある。そしてそのなかで、多勢の人魚が泳いでいるのだ。
室内は闇黒《あんこく》だ。天井は板|硝子《ガラス》で満々と水をたたえている。そこに、硝子の下と天井裏とに晧々《こうこう》と電灯が輝き渡っているんだから、早く言えば、金魚鉢を陽にすかして下から覗くようなもので、頭のうえに、光線を溶かして照明そのもののような水がひたひた[#「ひたひた」に傍点]と浪を打ち、女たち――のが薄桃色の蘭の花みたいに大きくひらいては縮み、鳥のようにつう[#「つう」に傍点]と流れ、二本の脚を拡げたまま浮かんで行ったり、潜《くぐ》りながら魚のように急廻転したり、静かに水を煽《あお》って平泳ぎを続けるのもあるし――何のことはない、まるで海水浴場か湯船の底を見上げるのと同じで、水はそんなに深くないから、なかには立って歩いているのもあれば、蹲跼《しゃが》んで肩まで浴《つ》かってるのもある。
十五、六の、女になり立てのから三十歳前後まで、十人あまりの女群のなかには、アルジェリイかどこか植民地産らしい黒人の女もいた。水に濡れて、膃肭臍《おっとせい》のように光っていた。それがみんな、水中の必要に応じて思い切り行動する――その全部を細密に照らし出して、石化したようにじっと振りあおいでいる一行の肩に、頭に、絨毯のうえに、硝子《ガラス》ごしの光線は千切《ちぎ》れ雲のような投影を落している。
上は明るい海底と人魚の乱舞、下は、ぽうっ[#「ぽうっ」に傍点]と月夜の森のような半暗《はんやみ》の凝結だ。
幻のように水の音が聞えていた。
戸外へ出ると、ノウトルダムのてっぺんに巴里《パリー》の月が引っかかって、石畳が汗をかいていた。夜露が降りたとみえる。
この NOTRE DAME ――ノウトル・ダムの寺院だが、これこそは、巴里のノウトル・ダムかノウトル・ダムの巴里か、てんで誰でも知ってる。そしてそれが、船の形をしてセエヌに浮んでいる、小さな|市の島《イル・デ・ラ・シテ》の小高いところに建ってることも、昔シイザアが威張り散らして羅馬《ローマ》からここへ来たとき、巴里《パリー》はこのセエヌの小舟島イル・デ・ラ・シテだけに過ぎなかったことも、だから今でも巴里の市章は、この市の起原を象《かた》どった船の模様であることも、イル・デ・ラ・シテはよく巴里の眼と呼ばれ、ノウトル・ダムは屡々《しばしば》その瞳と形容されることも、いつの世に誰が建立したのか未だにはっきり[#「はっきり」に傍点]、判らないこのノウトルダムに関して、ヴィクタア・ユウゴウは紀元七百年代にシャレマアニュがその第一石を置いたんだと説いてることも、この、ルイとボナパルトと敵と味方の泪《なみだ》を吸って黒いゴセックの堆積が、いかに多くの荘厳と華麗と革命と群集の興亡的場面を目撃して来たのであろうことも、傴僂のカシモドが身を挺してエスメラルダを助けたことも、一八〇四年、ナポレオン一世がここで戴冠式を挙げて、参列者の一人ダルバンテ公爵夫人が「眼に見るように」手記してるとおり、せっかち[#「せっかち」に傍点]なナポレオンは、まず一つの冠を非常に静かに――痛くないように注意して、軽くジョセフィンの頭へ戴《の》せたのち、自分のは実にがさつ[#「がさつ」に傍点]に引っ奪《たく》るが早いかぐっ[#「ぐっ」に傍点]とかぶって並居《
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