堰Eタボウル》の騒ぎが遥か彼方《かなた》、盛り場の夜ぞらにどよめいて、あたりは莫迦《ばか》にしんと静まり返っている。
親分のノックで戸があく。
一行勇気りんりんとして直ぐ二階の一室へ通る――「すすり泣くピエロの酒場」。
これがその酒場なんだろう。あんまり広くもない部屋にびっしり[#「びっしり」に傍点]椅子テーブルが立てこんで、正面に酒台《カウンタ》があるきり、装飾もなんにもない、外観以上に平凡というより、むしろ殺風景すぎる室内だ。なるほど酒場と銘打ってあるだけに、申訳みたいに売台《カウンタ》のむこうに酒壜《さけびん》の列が並んではいるが、公衆に開けてるんじゃないとみえて、この、酒場の書入れ時刻というのに、客といっては一人もなかった。
魔法使いのような、きたない服装《なり》の無愛想なお婆さんが出てきて電灯をひねったので、はじめてみんな、がやがや[#「がやがや」に傍点]と卓子《テーブル》に就くことが出来たくらいである。
で、一同、思い思いに狭い酒場の椅子に腰かけて、妙にぽかん[#「ぽかん」に傍点]としている。なあんだ馬鹿らしい! こんなところか、何も変ったことはないじゃないか――と言いたげな、狐《きつね》につままれたような、だからちょっと不服らしい顔つきだ。例のお婆さんが、むっつりしたまま売台《カウンタ》の向うに立った。これが酒番だとみえる。
親分が、隊員とお婆さんへ半々に言った。
『とにかく、まだ早いですから、ここで何か飲《や》って行きましょう。御銘々にお好きなものを御註文下さい――おい、婆さん、おれに黒麦酒《ブルウネット》!』
団員中の人見知りをしない饒舌家が、すぐ親分に倣った。
『それでは、と。わたしは赤《ブロンド》を頂きましょうかな。』
仕方がないから皆それぞれに註文を発する。お婆さんは黙ったまま、片っぱしからそれを注《つ》ぎはじめた。
奥から五、六人の女給が出て来て、お婆さんの突き出すのをテエブルへ運ぶ。厚化粧をした若い女たちだったが、妙なことには、それが一人ひとり違った型《タイプ》と服装で、ちょいとした若奥様みたいなのや、良家の令嬢と言ったのや、お侠《きゃん》な女学生風なのや、白エプロンの女給々々したのや、踊子のようなのや――この近所の人達の内職にしても些《ち》とどうも様子が変だと思っていると、その女たちが、卓子《テーブル》と卓子のあいだの細い通路をすり[#「すり」に傍点]抜けるようにして酒を配って歩く。普通の酒場やカフェの光景で、べつだん何の珍奇もない。
アンリ親分は知らん顔して麦酒《ビール》を飲んでいる。
待ちきれなくなったように、一行の代弁をもって自任している饒舌家が口を切った。
『何かあるんですか、ここに。』
コップの底のビイルをすっかり流しこんで、ハンケチで丁寧に口のまわりを拭いてしまうまで、親分は答えなかった。
『詰《つま》らないじゃありませんか、こんなところ。』
饒舌家が全員を代表してぶつぶつ[#「ぶつぶつ」に傍点]言っている。
遮るように親分が大声を出した。
『ちょっとそのあなたのテエブルの隅へ、巻煙草でも何でもいいから置いてごらんなさい。』
『え?』と、饒舌家は不思議そうな顔をして、『何でもいい? ここへですか――。』
言いながらポケットから十|法《フラン》の紙幣を掴み出して、卓子《テーブル》の隅っこへ載せた。
『こうですか――。』
すると、その言葉の終らないうちに、一同は唖然《あぜん》とした。というのは、ちょうどそのとき饒舌家の傍《そば》に立っていた女学生ふうの女が、いきなり高々と――上げたのである。下には――彼女だった。それが――と思うと、やにわにテエブルの角を跨《また》いで、しばらく適度に苦心|惨憺《さんたん》したのち、その十|法《フラン》札を挟んで悠々と持って行ってしまった。それはじつに、習練と経験を示《アウト》す一つの芸だったと言わなければならない。
瞬間の驚きから立ち返ると同時に、みんなは争って卓子《テーブル》の隅へ金を出した。だから同時に、あっちでもこっちでも、狭いテエブルの間にこの白い曲芸が演じられている。奥様ふうなのも踊子も、令嬢みたいなのも女給々々したのも。みな一せいに――。
へんに眼の光る、圧迫的な沈黙がつづいた。そのなかで、高く着物を押さえた女たちが、卓子《テーブル》から卓子へ移って秘奥《ひおう》をつくし、男たちはすべて、誰もかれも無関心らしく頬杖《ほおづえ》なんか突いていた。じっさいそれは、私達の持つ文明と教養を蹂躙《じゅうりん》しつくして止《や》まない、奇異な悪夢の一場面であった。
みんないつまでも金を置くから限《き》りがない。
酒番のお婆さんは、語らなそうにそこらを拭いている。
アンリ親分は超然として壁に煙草を吹きつけていた。
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