踊る地平線
ノウトルダムの妖怪
谷譲次
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)馬耳塞《マルセイユ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)「|不鮮明な隅《オプスキエア・コウナア》」に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しんさい[#「しんさい」に傍点]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)張出し《タレス》で 〔ape'ritif〕 でも
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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1
『馬耳塞《マルセイユ》からでも逃げて来たかね?』
『はあ。マルセイユから逃げてきました。』
『船は辛いだろうな。なに丸《まる》かね?』
『日本船じゃありません。英吉利《イギリス》です。』
『英船か。食いものが非道《ひで》えからね。』
『食い物がひでえです。』
『しかしお前、そんなことを言って巴里《パリー》へ潜り込んでどうする? 領事館へ泣きついて、移民送還ででも帰るか。こいつも気が利かねえな。』
『そいつも気がきかないです。何とかして巴里で一旗上げたいと思うんですが――故里《くに》にあおふくろもいますし――。』
『どこかね? 国は。』
『鹿児島です。』
『おれあ下谷だ。もっとも子供の時に出たきり帰らねえんだが――しんさい[#「しんさい」に傍点]はひどかったろうなあ!』
『震災はひどかったです。わたしも知らないんですが――。』
『AH! OUI! 新聞で見たよ。』
いやに星のちかちか[#「ちかちか」に傍点]するPARISの夜、聖《サン》ミシェル街の酒場、大入繁盛のLA・TOTOの一卓で、数十年来この巴里《パリー》の「|不鮮明な隅《オブスキュア・コウナア》」に巣をくっている大親分、日本老人アンリ・アラキと、親分のいわゆる「脱走いぎりす船員」たるジョウジ・タニイとが、こうして先刻《さっき》からボルドオ赤《ルウジ》――一九二八年醸造――の半壜《デミ》をなかにすっかり饒舌《しゃべ》りこんでいるのだ。
何からどう話を持って行っていいか――ま、とにかく、いやに星がちかちか[#「ちかちか」に傍点]してタキシの咆哮する晩だったが、カラアを拒絶して一ばん汚ない古服を着用した私――ジョウジ・タニイ――が、多分の冒険意識をもって徹宵《てっしょう》巴里の裏町から裏まちをうろ[#「うろ」に傍点]つくつもりで、ちかちか[#「ちかちか」に傍点]する星とタキシの――に追われ追われて真夜中の二時ごろ、このサ・ミシェル――サン・ミシェルなんだが巴里訛《パリーなまり》はNが鼻へ抜けるためほんとうはこうしか聞えない――の「ラ・トト」へ紛れ込んで、国籍不明の「巴里の影」の一つになりすました気で大いに無頼な自己陶酔にひたっている最中、先方にしてみれば何もそこを狙《ねら》ったわけじゃあるまいが、まったく狙撃されたように飛び上ったほど――つまり私はびっくり[#「びっくり」に傍点]したんだが、いきなりしゃ[#「しゃ」に傍点]嗄《が》れ声の日本言葉《ジャポネ》が私の耳を打ったのである。
『|やあ《アロウ》! 一人かね?』
というのだ。断っておくが、この場合、その質問者は何も特に当方における同伴――男女いずれを問わず――の有無に関して興味を感じてるわけではなく、第一、ひとりか二人か見れあ直ぐ判るんだし、これは、言わばただ、おや! こいつあ何国《どこ》の人間だろう? お国者《くにもの》かな? 一つ探りを入れてやれ、と言ったくらいの外交的言辞に過ぎないのだ。これでむっつり[#「むっつり」に傍点]黙り込んでいると、何でえ、支那《シノア》か、ということになって、鑑別の目的は完全に達せられる。じっさい頭から「お前は日本人だろう?」では放浪紳士に対して露骨《ルウド》に失するから、そこでこの挨拶のような挨拶でないような、ばかに親密な質疑の形式がいつの世からか発見されたもので、これは私たち世界無宿のにっぽん[#「にっぽん」に傍点]人間における一つの「仁義」である。つまり「港のわたり[#「わたり」に傍点]」なんだが、そんなことをしなくても日本人同士は一眼で判りそうなもんだと思う人があるかも知れないけれど、どうしてどうして一歩日本国を出てみると、早い話が、支那人だの馬来《マレイ》だのハワイアンだの印度《インド》だの、西班牙《スペイン》だの伊大公《デイゴ》だの91――9+1=10で猶太《ジュウ》――だのと「その他多勢」いろいろと紛らわしいやつ[#「やつ」に傍点]が出没しているから、何事も必要は発明のおっかさんなりで、ちょいと石を投げる心もちでこの「やあ! 一人かね?」をやる次第で、これによって日本人という事も確
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