闖o来れば、また、忽《たちま》ちこのとおり十年の知己のごとく、一つ卓子《テーブル》でこの場合ではボルドオ赤《ルウジ》――半壜《デュミ》。一九二八年製――をSIPしようてんだから、これは仲なかどうして地球的に荒っぽい意気さの漲《みなぎ》るじんぎ[#「じんぎ」に傍点]だと言わなければならない。
事実、馬耳塞《マルセイユ》でもリスボンでもハンブルクでもリヴァプウルでも、未知の日本人――そして日本帝国外務大臣発行の旅券を持たない人々――のあいだの最初の会話は、魔窟でも酒場でも波止場でも、必ずこうして開始されることにきまってる。
『やあ! 一人かね?』
これに対する応答も約束《コウド》により一定している。
『やあ! 一人かね?』
とおもむろに同じ文句を返してやるのだ。だからA「やあ! 一人かね!」B「やあ! 一人かね?」とこう一見まことに無邪気《イナセント》な、昨夜の悪友が今朝また省線で顔を合わしたような平旦な一街上劇の観を呈するんだが、こいつをいま「市民のことば」に翻訳してみると、A「やい! 手前《てめえ》はにっぽん[#「にっぽん」に傍点]だろう? 白状しろ!」であり、Bは「日本人だがどうした。大きにお世話だ!」となる。
どこから傍道《わきみち》へ外《そ》れたのか忘れちまったから、再び「夜の酒場、暗いLA・TOTO」へ引っ返して出直すとして――で、つまりその、そこで私が精々ぱり[#「ぱり」に傍点]・ごろ[#「ごろ」に傍点]めかして独りで凄《すご》がっているところへ、突然この「港のわたり[#「わたり」に傍点]」をつけたやつ[#「やつ」に傍点]があるんだが、そんなに心得てるなら何もびっくり[#「びっくり」に傍点]することはないじゃないかと言うだろうけれど、私をどきん[#「どきん」に傍点]とさせたのは、その場所――誰だってこの深夜の巴里《パリー》サミシェルの「隠れたるラ・トト」でよもや[#「よもや」に傍点]日本語をぶつけられようとは思うまい――と、何よりもその声の主なる一人物の風体相貌とであった。
と言ったところで、べつに異様ないでたち[#「いでたち」に傍点]をしていたわけじゃない。異様どころか、じろり[#「じろり」に傍点]と出来るだけ陰惨な一瞥をくれてこの「|やあ《アロウ》!」の出所を究明した私の眼に朦朧《もうろう》と――紫煙をとおして――うつったのは、何のへんてつ[#「へんてつ」に傍点]もない、薄よごれた服装《なり》の日本のお爺さんだったが、それがにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながら自分の酒杯《グラス》ひとつ持って私の食卓へ移ってきたのを見ると、私だって相当苦労を積んでるから三下《バム》か親分《ボス》かくらいは一眼で識別出来る。その、先生《シンサン》ばくちの貸元みたいに小柄なくせにでっぷり[#「でっぷり」に傍点]肥った巴里《パリー》無宿のアンリ・アラキ老――これは間もなく名乗りを聞いてわかったんだが――の身辺には、「七つの海」の潮の香がすっかり染みこんで、酸《サワ》も甘味《スウィイト》も舐《な》めつくしたと言ったような、一種の当りのいい人なつこさが溢れ、そしてその黒い細い眼の底に、若《わけ》えの、ついぞ見ねえ面《つら》だが、近頃めりけん[#「めりけん」に傍点]からでも渡んなすったかね? といいたげな、いかさま大胆沈着・傍若無人の不敵な空気が、世慣れたこなし[#「こなし」に傍点]とともにうっそり[#「うっそり」に傍点]と漂っているんだから、瞬間にして、私は思った。ははあ! これはただの旅人ではない。まさしく何のなにがしというれっき[#「れっき」に傍点]とした名のある大親分であろう、と。
だから、彼のあいさつに対しても咄嗟《とっさ》に私は幾分の敬語を加味して答えたくらいである。
『|やあ《アロウ》! 一人かね?』
『は。お一人ですか。』
こうして私の前にどっか[#「どっか」に傍点]と――じっさいどっか[#「どっか」に傍点]という親分的態度をもって――腰を下ろしたアンリ・アラキは、どういうものか最初から私を「馬耳塞《マルセイユ》から脱船してきた下級船員」に決めてかかっていたのだ。いつだって親分にさからうことは幾分の危険を意味するし、ことにこの際、べつにNON! なんかとわざわざ反対の意思を表明して立場をあきらかにする必要もないから、長い物には巻かれろで、そのままおとなしく「脱走船員――海の狼」に扮し切った私は、さてこそで、ちょいとこう船乗りらしく肩を揺すってぽけっとから紙《パピエ》を取り出し、そこは兼ねて習練で煙草を巻き出したんだが、この私の手の甲にさしずめ錨《いかり》に人魚でもあしらった刺青《ほりもの》でもあると大いに効果的で私も幅がきくんだけれど、無いものはどうも仕方がないとは言え、私はすくなからず気が引けている。が、そ
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