なみい》る僧正大官を驚かしたことも、そして今、そのノウトルダムは巴里第一の名所として、見物の異国者が引きも切らずに出たり這入ったりしてることも――これらはみんな、巴里のノウトルダムかノウトルダムの巴里かてんで、誰でも知ってる。いわんや中殿の屋上に十二聖徒の立像が巴里を見張っていることや、その有名な塔のうえに、より[#「より」に傍点]有名な異形変化《いぎょうへんげ》の彫刻が、これもおなじく巴里を見張っていることやなんか――有名だから誰でも知ってる。
 が、そう何からなにまで誰でも知ってるんじゃあ僕も物識《ものし》り顔をする機会がなくて困るんだが――ここにたった一つ、これは確かに僕が最初に発見したんだと揚言して憚《はばか》らない、「ノウトルダムの妖怪」という新事実があるのだ。
 妖怪は、塔の上の変獣化鳥《へんじゅうけちょう》、半人半魔の奇異像《グロテスクス》である。
 まあ、聞きたまえ。

     7

 故郷を見捨てるのはロマンテストの哀しい権利だ。みんな他の種族の秘夢をさぐり、新しい人生の瞥見にあこがれ、地球の向側の色彩をおのが眼で見きわめたい衝動に駆られて旅に出る。そして、そのうちの或る者は、鬢《びん》に霜を置いても帰ろうとしない。この種の「|漂泊の猶大人《ワンダリング・ジュウ》」の多くを、人は今ふらんす国セエヌ河畔の峡谷に見るであろう。
 セエヌの谷――「巴里《パリー》」。
 こうして、何だか自分でもはっきり[#「はっきり」に傍点]しないものを翹望《ぎょうぼう》して旅をつづけて来た流人達は、一度セエヌの谷へ這入るや、呪縛されたようにもうそこからは動こうとしない。巴里《パリー》は魅精を有《も》つからだ。ここに言うノウトルダムの妖怪がそれである。木乃伊《みいら》取りが木乃伊《みいら》になるように、この妖怪に取り憑《つ》かれた彼らは、いつの間にかその妖怪の一つに化し去ってしまうのだ。
 こころみに暗い螺旋段をノウトルダムの塔上へ出てみたまえ。
 そこの、栄誉あるGOTHICの線と影のあいだに、或いは、長い曲った鼻を市街の上空へ突き出し、または天へ向って鋭い叫びを投げあげ、もしくは訳ありげに苦笑し、哄笑し、頬杖をついている不可思議な石像の群――巨鳥の化けたようなのもあれば、不具の野獣に似たの、さては生き物を口へ押し込んでる半身魔《グリフィン》、眼を見張って下界を凝視してる幽鬼――これら石造の畸形児の列が、肘《ひじ》と肘をこすり、互いに眼くばせし合い、雨の日には唾をしながら、はるか下に霞む巴里を揶揄している。
 これがノウトルダムの、いや、世界に名だたる巴里の、妖怪像なんだが、より[#「より」に傍点]驚くべきことは、夜になって魔性の巴里が「べつの生」を持ち出すが早いか、これらの奇像群がのこのこ[#「のこのこ」に傍点]塔を下りて来て夜っぴて町じゅうをうろつく一事である。うそ[#「うそ」に傍点]でない証拠には、私はよく夜の巴里《パリー》で、この、現実にそして巧妙に人間化している妖怪どもに会った経験があるのだ。
 土耳古《トルコ》の伯爵になりすましてグラン・ブルヴァアルの鋪道の椅子に 〔ape'ritif〕 を啜《すす》ってるのや、セルビヤの王子に化けて歌劇のボックスに納まってるのや、諾威《ノウルエー》船の機関長として横町の闇黒で売春婦と交歩してるのや、なかには波蘭土《ポーランド》の共産党員を気取って聖ミシェルのLA・TOT0で「赤い気焔《きえん》」を上げてみたり、ぶらじるの大学生に扮して「|円い角《ラ・ロトンド》」で喧嘩してみたり、タヒチの画家と称して街上に春画を密売したり、そうかと思うと、セエヌの塵埃船を夜中にせっせ[#「せっせ」に傍点]と掃除していたり、メニルモンタンあたりの軒下にボルドオ赤《ルウジ》――一九二八年醸造――の壜《びん》を抱いてぐっすり眠っていたり、古着屋に乗り移って、車を押しながら天へ向って鋭い呼び声を投げ上げて行ったり――その他、かれらの千変万化ぶりは枚挙にいとまもないが、これらのノウトルダムの grotesques が仮りに人格化した有機物こそは、夜の巴里の忠実な市民なのだ。邪教のMECCAの狂信的な使徒達なのだ。
 げんに今も、その妖怪の一つは、日本老人アンリ・アラキという存在を藉《か》りて、こうして「生ける幽霊たち」の行列を引率している。ひょっとすると、この「脱走船員ジョウジ・タニイ」なる性格も明かに妖怪の化身かも知れない。ただ近代の百鬼夜行だから、練り歩くかわりに大型自動車をすっ[#「すっ」に傍点]飛ばしてるだけだ。N'est−ce pas ?
 夜が更けるにしたがって、巴里は一そう生き甲斐を感じてくる。
 ことにその裏まち――ノウトルダムの化物どもは巴里の裏町を熱愛する。
 例えばこの、美しく不潔で、巨大
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