烽、一匹の大猫がゆっくりとつづき、塵埃《じんあい》の白い窓枠に干してある二足の木靴が恋をささやき、村の肉屋は豚肉のうえに居眠り、それへ村の医者が挨拶して通り、どこからか厩《うまや》のにおいとハモニカの音律が絡みあって流れ、横町にはすぐ麦畑がひらけ、退屈し切った麦に光る風がわたり、そうしてそれらのすべてのうえに夏の陽がじいっ[#「じいっ」に傍点]と照りつけたり、楡《にれ》のてっぺんにしつこい蝉《せみ》の声があったり、小犬がじぶんの尾と遊んでいたり、それを発見した二階の女が編物を中止して笑ったり、その笑いに一家|眷族《けんぞく》みな出てきて盛大に笑いこけたり、そこへ、話しに聞いたばかりで未だ実物を見たことのない日本人が、しかも夫婦で来ているとあって、唯一の旅人|御宿《おんやど》ホテル・パブストのまえに村ぜんたいが押しあいへし[#「へし」に傍点]合い、気味わるそうに凝視し批評しにやにや[#「にやにや」に傍点]し、おい、おれにもすこし見せろ、だの、やあ、何か饒舌《しゃべ》ってらあ、真黒な髪の毛だなあ、ことのと、いや、そのうるさいったら――さて、ひとりでいい気に進めてきたが、ここらでちょっとテンポをゆるめて場処の観念を明白にしておく必要があると思う。そうしないと、どこで何を騒いでるんだか一向わからないから――そこで、なにを隠そう、この僻村こそは、和蘭《オランダ》ユウトラクト在なになに郡|大字《おおあざ》何とかドュウルンの部落である。
では、一たいどうして私たちが、この何なに郡大字なんとかのドュウルン村へこつぜん[#「こつぜん」に傍点]と姿を現わしたかというと、なにもわざわざ小犬がしっぽ[#「しっぽ」に傍点]――小犬じしんの――に戯れるのを見に来たわけではない。これには一条の立派な理由があるのだ。
知ってる人は知ってるだろう。前|独逸《ドイツ》皇帝ウィルヘルム二世は、いまこのドュウルンの寒村で配所の Moon を見ているのだ。
順序としてそもそも[#「そもそも」に傍点]からはじめる。
そもそも私たちはアムステルダム市にひとりの知友をもつ。ヴァン・ポウル氏と言って船具会社の重役だが、ある日、私たちが通行人のなかから物色して、卒爾《そつじ》ながらと途《みち》を訊いたのがこの親切なヴァン・ポウル氏で、翌日氏は、どこか会社の近処の食料品店で見つけたが、これは日本人の飲料であろう
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