熬mれないけれど、それは、もちろんあちこちさがしてはいるんだが、条件がむずかしいからなかなかないのだ。そこへもって来て、いっそベントレイお婆さんが出て往《ゆ》けがしにしてくれると、日本人の性質として、たとえ当てがなくても即座に飛び出すんだけれど、出られてはまた困るものだから、お婆さんも決して積極的な態度をとらない。そこで、あと脚で砂を蹴るにしたところでそのきっかけがなくて弱っていた形だった。
 何よりもうるさくて閉口なのは、同宿の人々がどっちかと言えば無教育な連中なので、恐ろしく躾《しつけ》が悪いとみえ、その子供たちが私たちに対してじつに公々然と興味と好奇の眼を光らせ過ぎることだった。
 たとえば、私と彼女が外出しようとして廊下へあらわれたとする。すると、必ずそこに早くも一小隊の少年少女が待っていて、気味がわるいものだから常に相当の間隔をおき、いざ[#「いざ」に傍点]とあらば直ちに逃げのびられる体《たい》がまえで、世にもしつこく凝視し、観察し、研究し、批評しているのを発見するのだ。
『そらっ! また日本人が出てきたぞ!』
『女がこっちを見てるぞ。』
『何か言ってらあ!』
『おい! 笑ったぞ、笑ったぞ!』
『なに? 笑った? ほんとか。』
『やあ、時計を出した。』
『ほら、来るぞ、くるぞ!』
 というようなことなんだろう。私たちが近づくと、左右の壁にぴったり背中をつけて立ち並んで、恐そうに口々に挨拶する。
『お早う!』
『お早う!』
『お早う!』
 そして、通りすぎたあとですぐ、
『おい! 聞いたか。男がお早うって言ったぜ。』
 なのだ。
 これをあんまりつづけられると、どんなに気のいい異国者《エトランゼ》でも、相手は子供と思いつつついうんざり[#「うんざり」に傍点]させられる。どうもここらの児《こ》は普通より質《たち》がわるいようだが、その国の子供は最もよくその国をあらわす。例のアングロサクソン・スウペリオリティ――不幸にも――の観念からか、一体イギリス人は外来者を受け入れない。英吉利《イギリス》では、外国人はどこまで往《い》っても外国人である。自分たちより一段も二段も下の動物と、万人が万人そう思っているらしい。ただ大人《おとな》は、動物にさえ――動物であるがゆえに一そう――悪感情を持たせまいとする紳士淑女らしいデリカシイから、電車内や往来などでも、ちらりちらり[#「ちらりちらり」に傍点]と見ないようにして見る。そこを、子供は子供だけにおおびらにやるだけなのだ。
 なんかと、下宿の不平からはじまって私たちが全英国のあらゆる事物に反感を抱き、ことあらば今日にも爆発してやろうと手ぐすね引いている最中――小野さんなる人物はここへはじめて出てくる。
 ある日の朝、ベントレイ婆さんがいつになくにこにこして私たちの部屋へ来た。手に新聞を持っている。読んでみろというから読んでみる。と――。
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「下宿を求むる一日本紳士」
[#ここで字下げ終わり]
 というのが標題で、広告欄につぎのような文章が掲載してある。その近処にだけ出る小さな区域新聞《デストリクト・ペイパア》だった。
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「ここに一人の年若き日本紳士あり。ロンドンの西南に当り、家族的好感の下宿をもとむ。紳士は独立の事業家にして良き地位を占め、かつ寝室居間食事に対して週二|磅《ポンド》半を最も快く支払うべく、その準備全くととのいおるものなり。うんぬん。」
[#ここで字下げ終わり]
『ふうむ。』
 私が感心したのを見すまして、ベントレイお婆さんははじめる。
『ああ! わたしの愛するヴァレイ氏夫妻よ!――註に曰く。私たちを谷《ヴァレイ》と呼んでくれ。そのほうがお前に覚えよくていいから。この家《うち》へ来たとき、私たちはむこうの便宜をはかって、つとにお婆さんにこう言い渡してあるのだ。だからお婆さんにとって私はヴァレイ氏であり、したがって彼女はヴァレイ夫人である――そこで、もう一度ヴァレイ氏夫妻よ! わたし――というのはつまりお婆さんじしんだが――は、つねにヴァレイ夫人に忠告して来ました。いかに資本金が出来ようとも、人間、下宿屋だけは始めなさんな、と。おお! その世話のやけること、その気をつかうこと!――しかし、ものにはすべて例外があります。まかないつき下宿も、すっかり日本人だけで充満させることが出来れば、ああ! かえってヴァレイ夫人にも奨《すす》めたいくらい――日本人! 何てまあお金払いのいい、思いやりの深い、あちこち届く国民でしょう? 五十年まえまでは野蛮国だったんですって? 信じられません! いいえ、信じられません! ほんとに家《うち》じゅうに日本人がいたらわたしはどんなに幸福でしょう! じっさい日本の方は理想的な下宿人で――。』
 と、これを要する
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