體ェとがそこここに揺れている。
時計はとうに三時二十七分を過ぎて、カレイ・ドウヴァの汽船に聯絡する汽車から吐きだされた乗客のむれが、ぞろぞろ停車場を出て来た。アドルフ・マンジュウの出迎人は瞬間石のように緊張しながら、一列につづく自動車のために細いみちを開ける。そこを群集に驚いた乗客たちが、思いおもいにタキシを走らせて通りすぎてゆく。それがすっかり通り過ぎてしまっても、奇蹟はまだ出現しない。一同は散ろうともせずに待っている。いぎりす人らしく自治的に、そして可笑《おか》しいほど厳粛な沈黙と静寂のうちに。
私たちは飽きてしまった。で、いささかばかばかしくなって歩き出そうとしたときだった。
ざわざわと停車場の出口《エキジト》にあたって少数の人がうごいたように思った。と、誰もかれもが一そう首を伸ばして、同時にアドルフ、アドルフというじつにものしずかな――英吉利《イギリス》人らしい自制的な――声がつたわってきて、女は手ぶくろを振っている。
灰いろの大型な幌無自動車《オウプン・カア》が人のなかの通路をすべってゆく。車のまえは一本の隙間が長くひらけ、車のうしろには女の信者たち――女給、女事務員、町娘等のムウビイ・ゴウアス――がぎっしりつづいて。
ただそれだけの野次《モッブ》である。
ほかの人々は、自動車のうえを見るよりも、そのまわりの群集をみている。それも、いかにもイギリス人らしく可笑しいほど厳粛な沈黙と静寂のうちに。
はじめからアドルフ・マンジュウを目的にしていたのは、集まった人々の十分の一だったのだ。他は、ただ群集のために一時歩行を中止していたのである。しずかに、そして自制的に、いかにも英吉利人らしく無言のまま。
アドルフ・マンジュウのあの浅黒い光った顔と、中年女の好きそうなひげ[#「ひげ」に傍点]と、有閑好色紳士めいた鼻のわきの小皺《こじわ》とが、イギリス人らしいあっけ[#「あっけ」に傍点]ない群集のなかを、映画用微笑とともにゆるくドライヴして行った。そばに、巴里《パリー》の新夫人――新夫人めかしてうつむいた――の肩に、ストウン・マアテンの毛皮が自動車の震動でこまかくふるえていた。
アドルフは灰色に縞の眼立《めだ》つ背広、夫人は黒のテイラメイド・コスチュウムだった。
信じられないかも知れないが、いくら「アドルフ・マンジュウ」だって、「法律による自分の妻[#「自分の妻」に傍点]」とともにこうして自動車を駆ることも、たまにはあるのである。
空は高く青く、建物は低く黒く、満足したらしい群集は自治的に解散し出す。最後に、イギリス人らしい可笑しいほど厳粛な沈黙と静寂のうちに。
待っていたようにバスが唸り出し、苺《いちご》売りが人を呼び、町かどの巡査は人間性を理解しつくしたもののごとく長閑《のどか》にほほえみ、ふたたびいつものヴィクトリヤ停車場まえの妙に鄙《ひな》びたすなっぷ[#「すなっぷ」に傍点]だ。
『思ったより年をとってるのね、アドルフ・マンジュウって。』
救われたように彼女が言っていた。まず、これはこれでおしまい――そういった、きょうの見物順序《プログラム》のひとつをすました旅行者のよろこびで。
小野さん
小野さんはロンドンにいる日本人である。
小野さんはいつも下宿を探している。
この下宿さがし――小野さんと私たちが相識《しりあい》になったのは、その「下宿探し」という楽しい企業に関する一つの妙ないきさつからだった。
当時私たちは、西南の郊外に近いパレス街に、そこらによくある賄付下宿《ボウデング・ハウス》の一つ、ベントレイ夫人方に居を卜《ぼく》していたのだったが、はじめのうちは珍しかったとみえて、何やかやとベントレイお婆さんがよく気をつけてくれたけれど、しばらくいると直ぐ慣れっこになって、だんだん万事粗末にし出した。下宿というものはへん[#「へん」に傍点]なもので、ひとつ嫌《いや》になると不思議に何からなにまで癪《しゃく》にさわってくる。べつに何がどうしたというわけでもないが、ただ朝夕その遣《や》り方のすべてが気に食わないのだ。こうなると先方もこの気分を感じて、気のせいか一そう虐待しはじめる。そうするとこっちもつい好戦的になって、事につけ物にふれ角が立ち、何となく大事件が突発しそうでしじゅう胸のばたばた[#「ばたばた」に傍点]するような日がつづいていた。なにもそんなところに我慢していなくても、ぽんぽん威勢のいい言葉を残して速刻引っ越したらよさそうなものだが、事実また、憤然と荷物をまとめにかかったことも一再にとどまらないのだが、ところが、じっさいに当ってみると、夫婦で荷物を足もとに茫然街上に立つわけにもゆかないしするから、一日延ばしに漫然と腰を据えていたので、そのまえにほかを探したらいいだろうというか
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