。』
『いいや、要らない。』
『いや、たしかに要るよ!』
 要る、いらないで際限がない。見兼《みかね》たとみえて、けさチェッコから来た人が仲裁に這入って何かくどくど[#「くどくど」に傍点]言っている。やがてその説明に満足したらしく、両方とも間がわるそうに黙りこんで、妙ににやにや[#「にやにや」に傍点]しながらふたたび箸をとり出した。
 このとき私たちは、彼女の発議で取ってみた缶詰の羊羹《ようかん》に「日本和歌山市名産」という紙が貼ってあるその愉快さにおどろいている。和歌山名物缶詰の羊羹には、多分に「明治」の味が缶詰してあった。
 部屋いっぱいにはち切れそうに濃厚な「日本」の発音と臭気。そしてそとは、チャアリング・クロスの史的に気軽な人浪《ひとなみ》とABCの詩だ。
 饒舌《しゃべ》るのと食べるのと、ここばかりはともに日本の「口」の緑園《オワシス》である。
 日本旅人のらんで※[#濁点付き平仮名う」、1−4−84]う[#「らんで※[#濁点付き平仮名、1−4−84]う」に傍点]。
 玄妙きわまりなき東洋日本の縮図―― It is SAKURA; yes sir, just off Charing Cross !
『ナンバ・エイト、定食スリイ!』

   セルロイドの玩具

 ヴィクトリヤ停車場のまえは文字どおりに人の顔の海洋だった。
 それがみんな、ちょうど三角浪のように一せいに同じ方向をむいて伸び上っている。
 午後三時二十七分、カレイ・ドウヴァ間の汽船に聯絡する汽車が、巴里《パリー》で結婚したアドルフ・マンジュウを乗せていま到着しようとしている。今朝の新聞にそう出ていた。だからこの人だかりである。
 いっぱんに男よりもものずき[#「ものずき」に傍点]なせいか、この自発的出迎人には女が多い。それともかれアドルフは全女性の「甘い心臓」とでもいうのだろうか。とにかく、あらゆる類型と年齢の女人がこの広場を埋めつくして、ロンドン交通の一部に大きな支障を来《きた》すほど、巡査が解散を命じようが軍隊が出動しようが、いっかな動きそうもない。おそらくは消防夫が喞筒《ポンプ》で硫酸を撒いても、すでにアドルフ・マンジュウを瞥見するためには死を賭して来ている彼女らは、びく[#「びく」に傍点]ともしないで立ちつくすことであろう。
 が、これほど群集の過半を占めている女も、こうしてよくみると、タイプと階級はじつに決定的に極限されていて、いかにもアドルフ・マンジュウを崇拝おく能《あた》わざるらしい、そして、一眼でいいからその巴里の花嫁なる人を「見てやり」たいと言いたげな、そこらの店の売子、タイピスト、女事務員、女給、老嬢、女房たちである。これらの低い、それだけまた妙に真剣な人たちのうえに、ひとつの変に競争的な空気が漂って、青い空の下、黒い建物に挟まれて数えきれない女の顔が凝然といならび、製本中の本の頁のようにいやにきちんと揃っているのだ。ちょっと不思議な圧迫を感ずる。
 思うにアドルフ・マンジュウの映像は、この人々の胸において、それぞれひとつの絶対な存在であるに相違ない。この近代商業芸術の創造したせるろいど[#「せるろいど」に傍点]英雄に対するファンなるもののこころもちは、ひどく個人的――恋がひどく個人的であるように――で、そうして恐ろしいまでにひたむき――ふたたび恋がそうであるように――なものに考えられる。すくなくとも、女たちの眼が、みんな一ようにこう意気込んでいるように見えるのだ。
 つまり、アドルフ・マンジュウを見るということは、この女群の一人ひとりにとって、聖なる概念の現象化――早くいえば、そのままに奇蹟を意味するのだろう。
 奇蹟を待つ人々はしいん[#「しいん」に傍点]としている。
 ただ、まえへ割って出ようとする女を、ほかの女が肘《ひじ》で争っているくらいのものだ。それも、いぎりす人のことである。すべてが可笑《おか》しいほど、厳粛な沈黙と、静寂のうちに――。
 私たちも朝飯の食卓で新聞の記事を見て、折から事あれかしと待ちかまえていたところだったので、こうしてぶらりとアドルフ・マンジュウを見物に出てきたのだ。べつに見てどうしようという意志もないから、このとおりおとなしくうしろのほうに引っこんでいる。
 三々伍々あるいている人たちが参加して、群集はふえる一ぽうだ。なかには、何だか知らずに立ちどまっている人も多いらしい。あちこちでおたがいに訊きあっている。きっと、皇太子殿下《プリンス・オヴ・ウェイルス》がいま亜弗利加《アフリカ》旅行へ出発するところだ、ことのいや、皇太子殿下がいま亜弗利加旅行からおかえりになるところだとのこと、いろいろ取り沙汰がたいへんだとみえて、何かさかんに言いふらしている物識顔《ものしりがお》と、それに応じてしきりにうなずいてい
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