hア》を発見してぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]と――その最も不用意な瞬間に――することであろう。
 デンマアク街]番――上に、SAKURAと金文字が読める。
 日本御料理「さくら」のまえに、私たちはいま立っているのだ。
 想像をも許さない「東洋神秘の扉」――それが現実にこうして倫敦《ロンドン》の一横町へむかって、冒険心に富む全市民のまえにひらいているのである。
 さくら――Ah, Yes ! Just off Charing Cross !
 日本の「口」のオアシス。
 日本旅人のらんで※[#濁点付き平仮名う、1−4−84]う[#「らんで※[#濁点付き平仮名う、1−4−84]う」に傍点]だ。
 何という民族的に礼讃すべき存在であろう!――なんかと、いくら私ひとりでさわいでも、日本にいる日本の人には何だか一こう訳がわからないかも知れない。が、解らなくても構わない。とにかく、ロンドンへ着いた日本人のほとんど全部が、この戸へ面したとき、やっとのことで一つの望みへ辿《たど》りつき得た大きな喜悦を、その涙ぐんだ溜息によって表現するのだとだけ言っておこう。
「ああ――!」と。
 そして、もう一つ、もし幸いにして諸君が些《いささ》かの同情と理解をもって聞いてくれるならば、私はここへこうつけ足したい――つぎの刹那、私たち――と言うのは倫敦《ロンドン》へ着いた日本人――は、勇躍してドアを蹴り、完全に万事を忘却して「|頭から《ヘッドロング》」にそのさくら[#「さくら」に傍点]の内部へ dive する。おみおつけの海に抜手《ぬきて》を切るべく、お米の御飯の山を跋渉《ばっしょう》すべく、はたまたお醤油の滝に浴《ゆあ》みすべく――。
 というと、ばかに大げさにひびくが、食物は民族の血と骨と肉を作っているばかりでなく、事実、歴史的にそのこころをも形成しているものだと私は信ずる。いや、信ずるというよりも、じつは今度の旅行によってそれを発見し、痛感しているのだ。だから私がここに、海外旅行中の全日本人を代表して――はなはだおこがましい次第だが単に便宜上――日本の食物に対する止《や》むにやまれぬ正直な告白――そして他人《ひと》の正直な告白を嗤《わら》う権利は神様にも悪魔にもないはずだ――をはるかに故国なる諸君に寄せたからといって、それは何も私だけが人なみ外《はず》れて食いしんぼうな証拠でもなければ、第一、なるほど問題は食物に相違ないが、その奥底に、飲食物なる最も端的な本能的なかたちを採って「遠い祖国」への恋ごころが――可哀そうにも!――動いていることを考えていただきたい。いやに辞を弄して自分の意地きたないところを弁解これ努めているようだが、とまれ、この「日本食へのあこがれ」―― only too often 私と彼女はこの異郷の発作におそわれる――ばかりは、日本に居ることによってあまりにその境遇に狎《な》れしたしみ、恵まれた運命に感謝することさえ忘れている大それた諸君《みなさん》には、とうてい察しが届くまいと私は逸早くあきらめている。しかし、私は確信する。私がこの紙とペンに託して私の最善をつくしたなら――何と大変なことになったものよ!――すくなくとも幾らかの実感が滲《にじ》み出て、それが諸君を打たずにはおかないであろうと。
 こと食べ物に関して来たらつい[#「つい」に傍点]むきになって申訳ないが、ま、一さいの議論はあと廻しにして早速SAKURAの戸をあけるとしよう。
 戸を開けると、倫敦《ロンドン》チャアリング・クロスのそばに、この日本御料理さくら[#「さくら」に傍点]である。
 うす暗い帳場のわきを通って階下《した》の食堂へ出る。高い窓から採光してあるだけなので、くもった日には昼でも電灯がともっている。壁によって白布の食卓、中央の机には「なつかしい故国の新聞」が二、三種綴ってあって、久方ぶりに相見《あいまみ》える餅菓子、どら[#「どら」に傍点]焼・ようかん・金つばの類が硝子《ガラス》器のうえにほとんど宗教的尊崇をもってうやうやしく安置してある。このろんどんの真ん中に、ここだけは切り離されたように見るもの聞く物すべてが「日本」だ。いつ行っても大概どの卓子《テーブル》もふさがっていて、AHA! なんと多勢のにっぽん人! みんな嬉しいことには私たちとおなじ黒い髪、黄色の皮膚、眼のつり上った真面目な顔、高い頬骨と短い四肢――地位と職業もほとんど一定している。正金《しょうきん》のAさん・住友のB氏・三井のCさん・郵船のD君・文部省留学生E教授・大使館のFさん――夫妻・子供・それに日本から伴《つ》れてきている女中――新聞社特派員のG君・「商業視察」のHさん・海外研究員のT君・寄港中の機関長J氏――これらは、すこし大きな欧羅巴《ヨーロッパ》の町ならどこでもかならず見参する「在
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