Bびゅうっと唸っておやじの丸帽子を叩きおとし、掛声を残して行ってしまうと、鵞鳥《がちょう》のように追っかけてようよう拾った帽子を袖で払いながら、あとからおやじが真赤になって呶鳴っているが、町の人の笑い声でそれはおやじ自身にさえ聞えない。
 単純《シンプル》で、そして楽しく華やかな過去のろんどん街上図だ。これらすべての「振り返って見る浪漫さ」は、あの、善くうつくしい時流というものの働きかける魔法かも知れないが、いま私たちが、その単純さ、その噪《さわ》がしい華やかさ、そのロンドンらしい「遵奉されたる蕪雑《ぶざつ》さ」において、この「巷の詩」のもつ調子《ニュアンス》とすこしも変らないものを見出し得る町が、こんにちの倫敦《ロンドン》にたったひとつ存在しているとしたら、それは、「すでにロンドンの失ったものをロンドンに求める」無理な旅人にとって、たしかに一つの福音であると言わなければなるまい。
 チアリング・クロスだ。
 AH! ちありんぐ・くろす!
 いったい亜米利加《アメリカ》人や英吉利《イギリス》人は倫敦を征服――完全に見物――しようとする場合、この掴まえどころのない漠たる大都会に立って、そもそもどこからその事業に着手するかというと、それはハイド・パアクの一角からはじめることに、ほとんど因襲のようにきまっている。そこに、公園に面して東側に、ちょっと人眼につかない灰色の石造建築物が立っている――これこそロンドン一番地とでもいうべきアプスレイ館《ハウス》である。このロンドン市一番地という概念は、よくここを起点にして倫敦の「足による研究《スタディ》」が開始されるからで、もちろん番地それじしんは何ら公式の権威を持たない。現にアプスレイ館《ハウス》のほんとの所在《アドレス》はピカデリイ街一四九番だ。が、それほどあめりか人なんかが「ロンドン一番地」を重要視して、かならずこの家のまえから倫敦《ロンドン》見物の足を踏み出すことにしているに反し、仏蘭西《フランス》人はふらんす人らしく芸術的不整頓を愛する好みから、このおなじろんどんに独特の出発点をもっている。それがここにいうチャアリング・クロスなのだ。
 そのむかし、いぎりす島の王様が皇后の棺をウェストミンスタア村の寺院へ埋葬するため、とむらいの行列を仕立ててテムズ河畔を進んだとき、途中いくつかの休み場所をしつらえたのだったが、当時チャアリング・クロスは、ウェストミンスタアへ這入る手前の、最後の葬列休憩所だった。あの、倫敦の歴史とは切ってもきれないドクタア・ジョンスンは、その時の淋しいチャアリング・クロス村が後日人間の潮《タイド》が浪をなして寄せては返す浜べになるであろうといっている。その予言のとおりに、いまのチャアリング・クロス街は大ろんどんの中心となって、市の劇的生活の主役のひとつを演じているのだが、ABCの詩にあらわれている田舎町《スモウル・タウン》めいた人混みと、音律と、あの色彩、それはその舞台面にふさわしい、狭く暗い、曲りくねったチャアリング・クロスにだけ、いまもそのままに、生きて動いているのだ。
 時間と煤煙と霧に黒ずんで、昔のとおりの軽い心臓の群集を両側の歩道に持っている英吉利《イギリス》での羅典区《カルテ・ラタン》――私は、皮肉で、粋で智的なフリイト街の雰囲気とともに、この細い一本道の提供する古めかしい|楽天さ《ケア・フリイ》を愛する。チャアリング・クロス――あまりに多くの不可思議《ミステリイ》を見てきた町。
 新々あらびや夜話が鉱脈のように地底を走っている往来である。
 何とたくさんの物語の主人公と女主人公がこのまち筋を歩かせられ、またこれからも、どれだけその人道を蹈《ふ》むことだろうか――OH! そして小説のなかの彼らめいめいの用意と目的と感情、それらのすべてを、過去のものも来るべき作家のペンに宿る性格も、書物を読むようにすっかり心得ているのがチャアリング・クロスだ。なぜなら、人はそっくりろまんす[#「ろまんす」に傍点]中の人物となって魅縛《みばく》的なここの敷石に立つ――と言われているほど、それほど、じっさいチャアリング・クロスを昼夜上下に押しかえす通行人は、ロンドンの他のどの町をとおる人ともちがって、いぎりす人らしくない一種ぼへみあんな理解に溶けあっているように思われる。
 チャアリング・クロスは古本の港。
 トテナム・コウトは家具の山。
 この、古本と古本屋のおやじと、おやじの自慢する天候観測能力とごみ[#「ごみ」に傍点]だらけの小さな飾り窓とのチャアリング・クロスをトテナム・コウトの地下鉄《チュウブ》停車場から新オックスフォウド街を越して二、三歩左へ切れたところに、すこしでも注意ぶかい人なら、そこに、一風変った人種の出入によって、しっきりなしに不気味に揺れている一つの戸口《
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