ン半日公園をうろついたのだったが――。
 草に日光がそそいで音楽が沸き、KOBAKが活躍し、演説が人をあつめて兵隊は恋人と腕を組み、夫婦は寝そべり、子供はいつの間にか柵につかまって独り歩きし、そこにもここにもカクネイの発音が漂って――一くちに言えば英吉利《イギリス》人の好きそうなハイド・パアクの油絵だ。いくぶんでもこの国の人の興味をひくためには、それは何よりも先に出来るだけ平凡であることを必要とする。
 公園を出ようとして石の道へ来たときだった。またすこし憩《やす》もうということになって見廻すと、ちょうどそこに空《あ》いた椅子がふたつ私たちを招いていた。で、腰を下ろしながら気がついたのだが、何だか眼のまえの芝生に粗《まば》らながら人だかりがしている。
 大きな楡《にれ》の木のかげである。
 白ずくめの若い保姆《ほぼ》が乳母車を停めてやすんでいるのだ。
 黒塗りの小さな乗物、そのなかのふっくら[#「ふっくら」に傍点]した白布《リネン》、それらのうえにまんべんなく小枝の交錯を洩れる陽が降って、濃い点が無数に揺れている。乳母車の主《ぬし》の赤ん坊は、白い被《かぶ》り物の下から赤い頬をふくらせて、太短い直線的な手の運動で、非常に熱心に、自分の靴下の爪さきを引っ張っている。保姆のほかに女中がひとり、それに、すこし離れて私服の役人らしい紳士がぶらりと立っていた。
 みんなが赤んぼうを見て往く。なかには帽子をとっている人もある。
 保姆は片手を乳母車にかけて、うしろ向きに女中と話しこみ、赤んぼはひとりでいつまでも自分の足と遊んでいる。一生懸命に靴下を摘《つま》んで、ながいことかかって或る程度まで脚を空《くう》に上げる事業に成功するんだが、そのうちにぽつんと切るように手が離れると、身体《からだ》ぜんたいがころっ[#「ころっ」に傍点]と反《そ》り返って驚いて両腕《りょうて》をひろげる。そしてまたしばらく自分の足さきを凝視し、その誘惑に負けたように手を出すのだ。いつまでも同じことを反覆している。
 赤んぼがぴいん[#「ぴいん」に傍点]と足をはじ[#「はじ」に傍点]いて車が動揺する時だけ、保姆はちょっとかえりみるが、小さな主人が飽きずに幸福にしているのを確かめると、安心してふたたび女中のおしゃべりに熱中し出す。役人らしい男は、喫《の》みおわった紙巻をぽうんと遠くの道へ捨てて欠伸《あくび》をした。
 来る人も往く人も足をとめて、ほほえみと軽い礼を赤んぼへ送っている。
 草を踏んで近づいてくる跫音《あしおと》が私たちをふり向かせた。さっきの切符売りの老人である。眼の蒼い、愛蘭《アイルランド》人の微笑とともに、そっと彼の低声《こごえ》が私たちの耳のそばを流れた。
『あれ――知ってますか誰だか。プリンセス・エリザベスですよ。』
 エリザベス内親王殿下は、現陛下の第二皇子ドュウク&ダッチェス・オヴ・ヨウクの第一王女である。
 椅子を立って歩き出すとき人の肩ごしに覗くと、内親王殿下には御機嫌いと麗しく、まだおみあし[#「おみあし」に傍点]へ絶大な御注意を集中されて、あんまりつづけさまに引っぱるものだからすっかり伸び切ってしまった御靴下のさきを、不思議そうに御研究なされている最中だった。
 ずらりと行人《こうじん》が垣をつくって、あらゆる角度からカメラがならび、瞬間シャッタアの音が草を濡らす小雨のようだ。無意識らしく話しこみながら、保姆がちら[#「ちら」に傍点]と手を上げて髪を直した。

   SAKURA

 一七一二年に発行された、ABCのいろは[#「いろは」に傍点]歌留多《かるた》みたいな“Trivia”のなかに、
 A――小路《アレイ》はぶらぶら歩きに持ってこいだし、
 B――本屋《ブック・セラア》の主人は天気の予言が上手だし、
 C――群集《クラウド》は馬車がくると左右にわかれ、
 D――塵埃屋《ダストマン》には閉口だ。
 などとE・F・G・Hと trivial なことを詩の形式であげてある。
 月並《トリヴィアル》には相違ない。が、よくこのABCの詩をにらんでしばらく眼をつぶり、それから眼をあけて、こんどは行と行のあいだをじっ[#「じっ」に傍点]と凝視していると、私はそこから昔の倫敦《ロンドン》が青白い姿でよろばい出てくるのを見るのだ。
 私は空想する――一、二世紀まえの倫敦の街上を。
 織るような人通りだ。
 黒子《ほくろ》を貼った貴婦人と相乗りの軽馬車を駆っていく伊達《だて》者。その車輪にぶら下がるようにして一しょに走りながら、大声に哀れみを乞う傴僂の乞食。何というそれは colourful な世であったろう!
 古本屋のおやじは一日いっぱい往来へ出て両手をうしろへ廻し、空を見上げて天気の予言に夢中だ。通りすがりの御者の鞭《むち》が一ばんあぶない
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