ヲていると――。
草を踏む跫音《あしおと》が私たちをふり向かせた。制服の老人が革のふくろをさげて立っている。
青い眼の愛蘭《アイルランド》人の微笑だった。
『二|片《ペンス》ずつどうぞ。』
私も、わけもなく好感にほほえんでしまう。
『――|お構いなく《ノウ・サンキュウ》。』
老人がしずかにくり返した。
『二片ずつどうぞ。』
私は重ねて辞退する。
『いいえ、有難う。ここで結構です。充分きこえますから。』
すると、老人の顔に困惑がうかんだ。言いにくそうにもじもじ[#「もじもじ」に傍点]したのち、彼は手に提げた袋の小銭をがちゃがちゃさせて、
『椅子にかける方には二|片《ペンス》ずつ戴《いただ》くことになっています。そのかわりこの切符を上げますから、これさえお持ちになれば、きょう一日ハイド・パアクとグリイン公園のなかならどこにかけても構いません。もしまた私の仲間が切符を売りにきたら、これを見せればよろしい。ひとり二片です。』
倫敦《ロンドン》へ着いて二、三日してから、私たちふたりきりでハイド・パアクへ来ているのだから、お金をはらって椅子にかけることなど知らなかったが、道理で気がついてみると、制服の切符売りがあちこち椅子から椅子へと歩きまわっている。そこへ来る前にどこかの椅子で買った人はその切符を見せているし、はじめて掛けた人はそこで椅子代を払っている。もっとも無料で長腰掛《ベンチ》もあるが、たいがいふさがっていてなかなかかけられないけれど、二片の椅子は数が多いから、すこし歩いて草臥《くたび》れたところで随所に腰がおろせる。この、公園に椅子を供給するのは一つの会社にでも請負わしてあるらしく、ロンドンじゅうどこの公園へ行っても、車掌のような帽子に裾の長い軽外套《ダスタア》を羽織った椅子代あつめの多くは老人が、緑いろの展開のあいだをゆっくり大胯《おおまた》にあるいているのを見かける。公園の入口に机でも据えてそこで売ったら宜《よ》さそうなものだが、何人あるいは何十人かの老人が一日いっぱい公園中を歩きまわって二|片《ペンス》の椅子料を集めるほうもあつめるほうなら、勝手に腰かけていて取りにくれば黙々として金を出すほうも、いかにもいぎりす人らしく、莫迦々々《ばかばか》しく野呂間《のろま》で、神経のふといところがうかがわれる。はるかむこうの芝生を豆のような人かげがこっちをさして旅行――それは全く旅行という感じだ――してくる。近づくにつれてそれが椅子の切符売りということを自証する。かれは、こっちの端に椅子を占めている人を望遠鏡ででもみとめて、すでに二片の金を払って切符を所持しているかどうか、もしまだなら、その金員を徴集すべく、こうしてはるばると、そして急がずあわてず、同じ歩幅をつづけて旅してくるのである。掛けているほうもまた、切符の有無にかかわらず、豆から針、針から燐寸《マッチ》の軸といったようにだんだん大きくなってくる切符売りの姿を、見るでもなく見ないでもなく、悠然と腰をおちつけている。やっとのことで傍《そば》まで来ても、もし客が黙って既買の切符を示せば、制服の老人はちょっと帽子をとって汗を拭き、そのまま直ぐ、またもや遠くに霞む椅子をめざして新しい長途の歩行に発足するだけだ。じつに冷静にそれを繰り返している。このロンドンの公園の椅子売りは、よく英吉利《イギリス》人の「やり方」を象徴化していて、私には印象ふかく感じられた。何十人何百人の人間を使おうェ、決まったが最後、なんらの感情なしに規定どおりに「実行」するのである。その愚鈍にまで大まか[#「まか」に傍点]な着実さがいささか私の敬意を強いて、倫敦《ロンドン》というと、私は反射的に、小さな鞄を胸へ下げて公園じゅう半|哩《マイル》一哩を遠しとせず、自信と事務に満ちて重々しく芝生を踏んでくる制服の「老いぎりす紳士」を脳裡にえがくのだ。もしこれが亜米利加《アメリカ》なら、広いところを一々二|片《ペンス》あつめて廻るかわりに、さしずめ白銅《ニクル》一個入れなければ腰かけられないように全部の椅子を改造することだろうし、そしてまたその椅子が、白銅《ニクル》一個入れるごとにちりん[#「ちりん」に傍点]とかがちゃん[#「がちゃん」に傍点]とか、なんと恐ろしく証拠的な大音響を四隣へむかって発散することであろう。これにくらべれば、英吉利《イギリス》のは遥かに、そこにおのずから古典的な一つの趣きがあるような気がする。
――などと考えたのはあとのことで、そのときは二片出してもっとよく音楽の聞えるところまで這入りこむのだと思ったから、私は、いや、ここでたくさんだ、ノウ・サンキュウと挨拶したわけだったが、そのお爺《じい》さんの説明でこころよく四片を投じ、ところどころで切符うりが来るたびにそれを呈示しながら、休みやす
前へ
次へ
全16ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング