~りたり出来るんでしょう。』
 なんてのはまだいいほうで、そうかと思うと、
『日本に鉄道がありますか。』
『保険がありますか。』
『新聞がありますか。』
 にいたっては真面目に応対出来ない。と言って、黙って笑っていたんでは無いように思われるおそれがあるから、ごく紳士的に、
『あります。』
『あります。』
『ありますよ。』
『ありますとも!』
『大いにあります!』
 そして――キュウ!
 むこうもやっと安心して――キュウ! じつにしゅんぷうたいとう[#「しゅんぷうたいとう」に傍点]たるものだ。
 さて、新聞でまた思い出したが――。
 私は、あさ眼がさめるとすぐタイムス一面の上段、個人欄《パアソナル》を見るのを何よりのたのしみにしている。けさはこんなものが出ていた。
「いいえ、決して許す事は出来ません。あなたのしたことを一ばんよく知っているのは、あなたです――ウィニフレッドW。」
 きのうは、
「五時に。いつものところで――S・K・N。」
 一昨日《おととい》は、
「こぼれた牛乳を泣くなかれ。グロウリアよ、記憶せよ。わが家の食卓につねに一つの空椅子《あきいす》がなんじを待てることを――父。」
 以下、連日散見のままに。
「準備すべて成り、指揮を待つ――ZZ。」
「BON・VOYAGE! 加奈陀《カナダ》の太陽はあなたのうえに輝くでしょう。感謝と祈り――谷間の白百合。」
「接吻。フレッドへ――エミイより。」
「夏季休暇中の友だちとして、同年輩の少年を求む。但《ただ》し喧嘩好きで、そしてあんまり肥っていないこと。当方十一歳――JACKベンスン。」
 読み終った私は、新聞をおいて眼をつぶる。そうすると、私の耳に倫敦《ロンドン》のうなりがひびき、眼のうらに白屋敷《ホワイト・ホウル》の、メイフェアの、聖ジェムスの、南ケンシントンの、ハムステッドの、ブリクストンの、そしてライムハウスの――一くちに言えば大ろんどんの生活種々相が走り過ぎる。ジョンソン博士が予言したように、チャアリング・クロスにはいま|人間の潮《ヒュウマン・タイド》がさかまき、ロンドンは生きた小説でいっぱいだ。その曲りくねった路と、その暗い夜と、そのスコットランド・ヤアドと――。
 異国者は淋しい散歩を愛する。
 うつむいて歩いていると、英吉利《イギリス》の土には、日本とちがった石と草がある。草や石でさえこうもことなっているのだ。まして人と人――西のこころと東のこころ、と言ったようなことを、ともすると私は重苦しく考えている。が、都会の散歩者はもっと伊達《だて》で噪狂でなければならない。私も洋杖《ステッキ》を振って頭を上げよう。そして、レンズのようにうつろになって、この近代商業のバビロンを映して行こう。
 英京ろんどん――その age old な権威ある凝結のなかに、低いビルデングと国家的記念像・電車とGENERALの二階つき乗合自動車・市民と市民の靴、これらすべてが現実に地球の引力を意識して、おのおのその完成せる社会制度上の持場にしたがい、感心なほど静止したり這《は》いまわったりしている。ここでは、何もかもが「完成せる社会制度上の定律」によって、工場の調べ革のように滑《なめら》かに運転するのだ。銀行の小使は、銀行の小使としての社会的地位とその役目《ファンクション》を知る事において「紳士」であり、犬は、犬としての社会的地位とその役目《ファンクション》を知る知らないによって「紳士」もしくは「淑女」の犬か、そうでない「普通《コンモン》の犬」かが別れ、時計がとまっても犬が走っても、議会と商業会議所と新聞と牧師は即座に結束して起《た》ち、決議をもって want−to−know−the−reason−why するであろう。だからストランドには、どこまで往《い》ってもおたがいに全然無関係な散歩者の列が、排他的に散歩のために散歩し、ピカデリイでは、芝居の切符を買う人が人道に椅子を据えて夕刊とたばこと相互の無言とで何時間でも待ちつくし、街角の酒場《パブ》、歴史的に権威ある“Ye Old White Horse”のまえには、いつもロイド・ジョウジを汚くしたような老失業者と、バルフォア卿にそっくりの非番のバス運転手とが、ひねもす政党政治と競馬との紳士的討論にふけっているに相違ない。そしてハイド公園の権威ある芝生では、やっとのことで「淑女」の売子嬢を伴《つ》れ出してきた「紳士」の番頭が、四、五年まえに紐育《ニューヨーク》で流行《はや》った made in U.S.A. の|駄じゃれ《ワイズ・クラック》を、いったいいつ口に出して彼女の尊敬を買ったものかと、そのもっとも効果的な瞬間を狙っている最中だろうし、権威あるタキシは絹高帽《シルクハット》と鳥の羽の団扇《うちわ》を積んでいかにも思慮ぶかく走り、トラファルガア広場では紳士的な社会主義者が鳩と空気と落葉にむかって対|印度《インド》政策の欠陥を指摘し、とうの昔に日本で封切りされた映画に紳士淑女の礼装がいならび――これを要するにあらゆる感激・突発・殺倒・異常・躍動・偶然を極度に排斥して、ただそこにあるのは、牡蠣《かき》――生死を問わず――の保持する冷静・ホテル支配人の常識・非芸術的な整頓・着実な平凡・十年一日除幕式のように順序立った日常・節度と礼譲・一歩も社交?oない紳士淑女のむれ・権威ある退屈――何世紀かにわたる商業と冒険と植民とが、いまこの海賊の子孫たちに、速度《スピイド》と薬味《スパイス》と火花《スパアクル》の欠けたさくぜん[#「さくぜん」に傍点]たる近代生活を、単に経営のため経営として強いているのを見る。何たる|個人的感情の枯れた《インディファレント》「紳士的現象」であろう! UOGH! なんという無関心な、かなしいまでに実際的過ぎる社会図であろう! 紳士と淑女に「調子はずれ」と「若い愚かさ」と「夢中になる経験」を予期出来ないのは当然だ。が、個性のはっきりしない表情に歴史と領土による尊厳を作為して、あまりにも一糸みだれない毎日を、何らの懐疑も反逆もなしに受け入れている敬愛する英吉利《イギリス》人の道徳律《モラリティ》を呼吸していると、私は正確に、死期を逸した陰険な老猫を聯想する。親切と誇示癖と利用本能。何があっても昂奮する神経を持ちあわさない倫敦《ロンドン》人。その鈍いおちつき、救われないひとりよがり――AH! 私のろんどんは瑕《きず》だらけな緩動映画《スロウ・モウション》の、しかもやり切れない長尺物だ。テンポのおそい荘重なJAZZ――この滑稽な矛盾こそは現代の英吉利だ!――銅版画の古城からきこえてくるエイル・ブルウの舞踏《ステップ》、英文学の古本にこぼれた混合酒《カクテル》のにおい、牛肉と山高帽・牛肉と山高帽。そして、above all ――テムズを撫でる粉炭の風。
 いまの倫敦《ロンドン》は、町も人も、人のこころもあまりに横にひろがり過ぎている。絵と詩と、文学と音楽と天才と革命よ、このろんどんを見捨てよ!
 街上、よく見かけるもの。
 松葉杖。脚部に故障のある人――片足長い、あるいは短い――等。ひげの生えた女。肥った老婆。しるく・はっとと晴天の洋傘《コウモリ》。ブウツの薬屋。ライオン食堂。ABC――炭酸瓦斯麺麭会社《エイレイテド・ブレド・カンパニイ》――。あめりかの観光客。古着売買のゆだや人とかれの手押車。屋根に荷物置きの小欄干のついた箱みたいなタキシ。「|すっかり盲ら《トウタル・ブラインド》」とか「|かなり盲ら《クワイト・ブラインド》」とかと細かい区別を明表した大きな紙札を首から下げている乞食。労働者の辻演説。慈善花うり娘。相乗りのモウタア・サイクル。道路工事。石炭配達者。深夜の屋台店。宣伝掲示「|英産品を買え《バイ・ブリテシュ・グッズ》」。海外侵略の英雄像と欧洲戦争記念物の林立。歩道画家《ペイヴメント・アウテスト》。広場と芝生――夜門を閉めるのが公園・一晩じゅう明けはなしなのが共有地《コンモン》――陽にやけた植民地の青年。雀。犬。老大木。

   おぺら・ぐらす

 六月二十三日――ロウヤル・アルバアト会館《ホウル》にロウヤル・コウラル協会の「ヒアワサ」を見る。ロングフェロウの詩をコラリッジ・テイラアが抜萃《ばっすい》作曲したのを、フェアベイルンが演出しているのだ。音楽指揮マルコム・サアジェント博士。ヒアワサの結婚祝い、ミネハハの死、ヒアワサの出発の三幕に別れている。一大合唱と群集運動の連続で、室内野外劇とでもいうべきものだ。衣裳と色彩と照明とでちょっと印象的な効果を出す。コウラス八百人、舞踊《バレー》二百人。すり鉢の底のような独特の舞台に約千人の西|印度《インド》扮装者が一時にあらわれる。見物《スペクタクル》といえば見物《スペクタクル》、幼稚といえば幼稚。第三幕の白人のくる場面は全然ないほうがいいと思った。このため喜劇におわっている。廊下では、片っぱしから扮装のままの役者に掴まって挨拶された。ほん物が検査に来たと思ったのだろう。
 六月二十六日――コヴェント・ガアデンのロウヤル・オペラ。だしものは「ファウスト」。ユウジン・グウセンスの指揮。シャリアピンのメフィストフェレス。大礼装の紳士と淑女。私たちも礼装して自動車を乗りつける。それだけ。切符ひとり金二十五円|也《なり》。
 六月二十八日――ロウヤル・ドルウリイ・レイン座。楽劇《レヴュウ》「芝居舟《ショウボウト》」。黒人声楽家と踊子。あめりか南部棉花栽培地方のはなし。わりに退屈。
 六月三十日――皇太子《プリンス・オヴ・ウェイルス》劇場。「現場不在証明」。アガサ・クリスティの「ロジャア・アクロイド卿殺害事件」を舞台化したもの。トリイ夫人が出ている。
 七月三日――女王座《クイインス》。「メリイ・ドュウガンの裁判」。これは市伽古《シカゴ》の上級法廷を背景とする亜米利加《アメリカ》のメロだが、妙に変っていて大受けだ。現に世界中三十七個国でやっている。観客一同を陪審官に見立てて舞台で公判が進行する。なかなか考えたものだ。如実な、そしてかなりに cleverly done なスリラアである。

   聖マアテン街の家

 まずしい小人形《マリオネット》の踊りをその踊りの輪のなかから見るつもりで、さんざん探した末この貧民区へうつって来た私たちは、第一に幻滅を味《あじわ》わなければならなかった。というのは、これは私がすこしく物語的に失したせいかも知れないが、そこの貧民窟には、そういう人々に特有な、無智から来る超国境の好意と狡猾な歓迎があるだけで、私がこころひそかに望んだような、「逃げるようにして動く人影」も、「格子縞の鳥打帽を眼《ま》ぶかにかぶって口を曲げてものをいう傷痕《きずあと》の男」も、「誘拐されてくる社長の令嬢」も、OH! 何というあり得ないことであろう! ピストルの音さえもかつて一度として聞えたことはなかった。ただみんなが平和な怠惰と不潔な食物と無害な嘘言とに楽しく肩を叩きあっているばかりだ。それが私にはたまらなく不平だったが、より以上に私を不思議がらせたのは、この人々が、私が日本の社会で私の周囲に見たのと全然同じ小市民的な雑事に追われとおしていることだった。たとえば「何をやらせても駄目な息子」、「六|片《ペンス》あるとすぐ呑んでしまう父親」、「妹の結婚に嫉妬のあまり狂言自殺をする姉」、「年中洗濯の手腕を自慢しているおふくろ」、「どうも近頃様子のへん[#「へん」に傍点]な娘」、「ごみ[#「ごみ」に傍点]を食べて困る赤ん坊」、「何かちょっと借りに来ちゃあ決して返したことのない隣家の女房」――登場人物と出来事はたいがい型のごとくきまっていて、どこの国の裏店《うらだな》もおなじに、人は雨と煩瑣な感情にわずらわされながら無自覚な混迷のうちに年をとってゆくにすぎない。こんな当然の発見を発見としなければならないほど、あまりにもその諸相《フェイゼス》が同一なために、いつしか私たちは異国に来ているという心もちをすっかり忘れて、故国にのこしてきた小さな身辺といささかの変りもない人情と世の中を見出
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
谷 譲次 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング