。孔子の所謂る其の心に順ひて其の則《のり》を越えざる底《てい》のものならざるべからず。是を喩ふれば、水の流るゝが如く、鳥の鳴くが如く、野の花の咲くが如く、赤兒の母を慕ふが如く、古の忠臣義士の其の君國に殉したるが如きものならざるべからず。而して道徳も茲に至れば即ち無道徳のみ。既に意識を絶し、考察を絶し、又戮力を絶す。是れ一種の習慣、本能のみ、道徳的價値あるを得ざるや言ふ迄も無し。思ふて是《こゝ》に至れば、吾人は大道|廢《すた》れて仁義ありてふ老子の言の、千古の眞理なるを認むると同時に、所謂る道徳なるものの價値の甚だ貧少なるに驚かざるを得ざる也。
 更に一歩を進めて是を觀む乎。道徳の極度は無道徳に存すてふ命題は、取りも直さず本能の絶對的價値を證明するものならずや。吾人が日常の習慣と雖も、一旦夕にして成立し得るものにあらず、其の初めに當りては實に幾多の苦痛と煩悶と戮力とを要するなり。吾人の本能なるものは、謂はば種族的習慣也。幸にして後代に生れたる吾人は、無念無爲にして其の滿足を享受すと雖も、試みに吾人の祖先が是の如き遺産を吾人に傳へ得るまでに、幾何の星霜と苦痛とを經過したりしかを考へよ。吾人
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