は第3水準1−92−16のつくりの形、読みは「わづか」、286−下−24]に一日の粟、而かも甘じて己れを知る者の爲に死す。是の間の消息何ぞ至善あらむ、何ぞ目的あらむ、又何ぞ手段あらむ。彼等の忠や義や、到底道學先生の窺知を容《ゆる》さざるものある也。喩へば鳥の鳴くが如く、水の流るるが如けむ、心なくしておのづから其の美を濟《な》せる也。古の人曰へらく、野に咲ける玉簪花を見よ、勞《はたら》かず紡《つむ》がざれども、げにソロモンが榮華の極みだにも其の裝ひ是の花の一に及ばざりきと。あゝ玉簪花、以て彼等の行爲の美しきにも喩へむ乎。然れども道徳の眼を以て見る、則ち如何。彼等若し既に至善を解せず、隨つて至善を實現せむとするの動機に於て缺くる所ありとせば、其の行爲や、果して道徳的價値を有せりと謂ふべき乎。道徳的行爲は意識を要し、考察を要し、戮力を要す。而して彼等の行爲や、雲の無心にして岫を出づるが如き也、麋鹿のおのづから溪水に就くが如き也。彼等が其の君國に殉し、其の親夫に盡せるは、猶ほ赤兒の其の母を慕ふが如くにして然り。其の心事や、渾然として理義の解析を容《い》れざる也。赤兒の其の母を慕ふは人性自然の本
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